コーラン、第14章イブラヒーム章アブラハム(2)
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聖典コーラン
今回もコーラン第14章イブラヒーム章アブラハムについて見ていきます。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
イブラヒーム章章は、預言者イブラヒームと彼の祈祷に触れ、この偉大な預言者が、人々を導く上で行った神の道における戦いが述べられているため、イブラヒーム章と名づけられています。この章ではまた、以前の預言者たちや、その民、つまり、ヌーフの民やムーサーの民、アードの民やサムードの民について語られています。
前回は、神の恩恵への感謝についてお話ししました。ところで、なぜ神は、私たちに、目と耳、知覚、様々な器官を私たちに恩恵として与えてくださったのでしょうか? それは、私たちがこの世における神の偉大さを理解し、人生の道を悟り、そうした手段によって、成長へと向かうためです。もし神から与えられた偉大な恩恵を正しい道に使うことができれば、行動による感謝を実践したことになるのです。しかし、もしこうした恩恵が、高慢さ、利己主義、怠惰、神からの乖離のための手段にされれば、それは感謝をしないのと同じことです。シーア派6代目イマーム、サーデグは次のように語っています。「最低限の感謝とは、恩恵を神からのものと見なすことである。また神の恩恵に満足すること。神の恩恵を、神の命に逆らうことの手段にしてはならない」
権力、知識、思考力、社会的な影響力、富や財産、健康、これらの恩恵のそれぞれに、感謝をするための方法が存在します。人間が神の恩恵を、その真の目的に沿って正しく使えば、それは実際、自分のふさわしさを証明したことになります。そしてその相応しさにより、恩恵が増やされることになるのです。
また、感謝とは、与えられた恩恵を、自らの成長のために使うことです。例えば、庭師は、庭園の一部分では樹木がよく生長し、それらを手にかければかけるほど、立派に育つのを目にします。そのため庭師は、いつもその部分を気にかけるようになります。しかし、庭園の別の部分は、木々が枯れ、葉っぱや花、果実も見られません。そのため一層、庭師はそれらに愛情をかけることがなくなり、そのような状態が続けば、それらを切り倒してしまうでしょう。なぜなら、何の実りもないからです。人間の世界についても、同じことが言えます。ただし、木には自分で何かを決めることができず、自然の法則に従うしかありませんが、人間は、意志という力や教えを利用することで、様々な恩恵を正しく利用するために歩むことができるのです。
もし、誰かが恩恵を悪用するようなことがあれば、例えば、権力を、他人の権利を侵害するための手段にすれば、実際、その恩恵を受けるにふさわしくないことになります。しかし、権力を、真理と公正を実行するために利用する人は、恩恵を利用する上でのふさわしさ、能力を示したことになり、心の中で、「主よ、私はふさわしい人間です。だから恩恵を増やしてください」と言うことになるでしょう。
シーア派初代イマーム、アリーは、感謝の重要性について次のように語っています。「神の恩恵の土台があなた方に届けられたとき、感謝によって、残りを引き寄せるよう努めなさい。わずかな感謝によって、それを遠ざけてはならない」 明らかに、いつでも恩恵に感謝しようとするたびに、その力こそ、新たな恩恵となるのです。こうして、感謝をするたびに、私たちは、神から新たな恩恵を受け取ります。そのため、私たちは決して、しかるべき形で十分に神に感謝を捧げることができないのです。
神への感謝は、恩恵に対するものだけでは、十分ではありません。その恩恵を届けてくれた人々に対しても感謝すべきであり、彼らの苦労に報いなければなりません。そうすれば、彼らをさらなる奉仕へと促すことができるでしょう。社会に感謝の精神を復活させ、知識や献身によって、社会の目的の推進に貢献する人々に感謝を捧げることは、その社会の繁栄と発展のための重要な要素のひとつです。感謝の精神にかける社会では社会に貢献しようとする人はそれほど見つかりません。反対に、人々の献身や苦労に相応しい形で感謝が捧げられる社会では、努力と献身の精神が高まり、発展のための土台が整うことになるのです。
イブラヒーム章の第18節には次のようにあります。
「不信心者の行いをたとえれば、激しい嵐の日に、強い風に吹かれて散ってしまう灰のようである。彼らは自分たちが手にしたわずかなものを保持することもできない。これこそ、非常に深い迷いである」
強い風に吹かれて灰が散ってしまえば、誰もそれを集めることができないように、真理を否定する人々は、自分の行いによって、何かを手にすることはありません。彼らの行いは皆、風に散ってしまい、その手には何も残りません。彼らの行いは、表面的には立派に見えるかもしれません。しかしそれは、あくまでも表面のみであって、何の意味もありません。一握りの土の中には、非常に美しい花が咲く可能性がありますが、灰が大量にあったとしても、雑草すら生えてきません。このように、不信心者の行いは中身がなく、何の実も結ぶことはないのです。