6月 12, 2018 15:41 Asia/Tokyo
  • 神に対する信仰心の準備
    神に対する信仰心の準備

平穏な心を持っている人は、神に対する信仰心の中で、穏やかな精神と希望を持つことにより、人生のさまざまな出来事を見ています。このような人は、過去の悲しみや未来への恐れや不安から解放されており、現在を生き、神の満足のみを求めているのです。

平穏な心を持っている人は、神を肯定的に見ており、人生のすべての出来事を神の意思だとみなし、心の中で、すべての悪いものを、大きな恩恵と捉えます。シーア派8代目イマーム・レザーは、神に対する肯定的な見方について、次のように語っています。

「神に対して、期待と希望を持ちなさい。まさに栄誉ある神は、わたしは信仰心ある善良なしもべの考えの近いところにいる、もし良い考えをもてば、よく見え、もし良い考えを持っていなければ、良くは見えないと語っている」

つまり、健全な魂を持っている人は、問題が発生したときでも、あるいは重い病気にかかっても、悲しむことはなく、ほかの人たちの表面的なよさに嫉妬することも、誰かを恨んだりすることも、怒りの感情を抱くこともなく、神の慈悲に希望を持ち、神の英知を信じて、耐えるのです。

 

 

穏やかな心を持っている人は、健全な魂を有しており、この世のすべての存在は神を賞賛していると考え、自身は、この世のすべてに調和させます。その人は、ただ、神に従っているだけなのです。確かにこの服従は、責任をも生じます。その責任とは、自身に対する責任でもあり、また、周りの自然や人々に対する責任でもあるのです。

労働の価値は、労働の種類と共に、個人の意思にも関係しています。そのため、人間は神の僕としての責務を果たすことに加えて、自身や他人、自然への対応を、宗教的な動機により、神からになった責務として、果たすことになります。

時に、人間は遺伝的な要素、あるいは環境の影響、習慣などにより、病気にかかります。こうした中で、健康を失うことによる未来への恐れや不安、悲しみといった形による、病気への反応は、身体の健康に加えて、精神的な病気による苦痛ももたらします。

このように、魂の健康に恵まれない人は、神から見放されたと考えます。その考えや不満の結果、悲しみが生じ、それにより、将来への不安や、恐れが生まれます。

この被害者意識は病気の治療が治療されなければ、恐れや悲しみは、防衛の手段としての怒りを生むことになり、神経質になり、侮辱行為や衝突などを生むようになります。なぜなら、内面の怒りは、次第に自己嫌悪を生み出し、恨みの感情に変わるからです。こうした中、自身やほかの人に危害を加えたりする可能性が、数倍に膨れ上がります。

多くのイスラム教徒の医師や心理学者は、穏やかな心を持ち、魂の健康にいたるためには、予防の段階を真剣に考える必要があると考えています。プライマリー・プリベンション、つまり初期段階の予防措置とは、病気の初期段階から、それを完全になくすための措置を取ることを指します。そして、治療に向けた早期認知など、第二の予防策も注目されています。

身体的なものであれ、精神的なものであれ、健康に関して何よりも重要なのは、初期段階の予防措置であり、これによって身体的、精神的な病気にかかることが少なくなります。つまり、両親の結婚以前、妊娠時、子供が幼いころの魂の健康は、大変重要です、多くの精神的な病気は、こういった時期にかかることが多いのです。

シーア派初代イマーム・アリーは、子供たちにあてた書簡の最初で、次のように語っています。

「子供たちの心は、耕されていない土地のように手付かずの状態で、どのような種でも植えられる。このため、私は、心がかたくなになり、ほかの思想でいっぱいになる前に、お前たちの教育を急いだ」

 

 

85歳の賢者は、このように語っていました。「子供時代、世界を変えたいと思っていた。成長してからは、国を変えたいと思っていた。年を取って、自分の町を変えようと決意した。いまは、もし自分が変わり、よりよくなっていたら、家族、町、国、世界は変わっていたということを理解している」

人が自身を変え、魂の健康に達することは、簡単なことではありません。魂の健康にいたるためには、絶え間ない努力が必要です。健全な子供を持つためには、健全な遺伝子が必要であり、子供の魂の健全さに関しても、両親は自身をよりよくしなければなりません。つまり、良い性格を身につけ、非道徳的な事柄から遠ざかるべきなのです。両親が道徳的な寛容さを身につければ、それを良い形で伝えることができるのです。

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