6月 23, 2018 23:13 Asia/Tokyo
  • コーラン第88章アル・ガーシーヤ章、圧倒的事態
    コーラン第88章アル・ガーシーヤ章、圧倒的事態

今回は、コーラン第88章アル・ガーシーヤ章、圧倒的事態を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ガーシーヤ章はメッカで下され、全部で26節あります。この章は、唯一神の信仰、復活、預言者というイスラム教の3つの原則を強調しています。この章では、復活の日の状況、神の恩恵、最後の審判における2つの正反対のグループの特徴、神の力や偉大さ、唯一神信仰のしるし、神の預言者たちの責務と導きの役割といった事柄について述べられています。

 

アル・ガーシーヤ章の初めには、最後の審判の呼び方のひとつで、この章の名前にもなっている、「ガーシーヤ」という言葉が出てきます。第1節を見てみましょう。

 

「ガーシーヤの物語が汝に届かなかったか?」

 

この章の名前-「ガーシーヤ」が最後の審判のために選ばれたのは、この日に起こる恐ろしい出来事が、すべてのもの、全ての人、すべての場所に及び、それらすべてを包み込むからです。

 

コーランは、このような警告的なメッセージによって、最後の審判の日の罪を犯した人々の状態について延べ、この日の2つの異なる姿を描き出しています。最初のグループの人々は、屈辱的な表情をしています。その日の大きな懲罰や責め苦に対する恐れや屈辱が彼らの全身を覆っています。人間の精神的な状態は、どこよりも表情に表れます。そのため、彼らの表情全体には、このような恐怖や屈辱が見られるのです。彼らは、現世で多くの努力を行ったものの、ただ疲弊しただけでした。神を前にして合理的な行動や信仰を持ってもいなければ、蓄えた多くの富の中からいくらかを持ってくることもできません。彼らは名を残すこともなければ、よい行いもなく、無意味な努力に疲れ切った人々です。彼らの結末は、業火の中で焼かれる、というものですが、彼らの懲罰はそれだけでは終わりません。業火の熱によって喉の渇きをおぼえたとき、煮え立つ熱湯を飲むことになるのです。

 

コーランによれば、このような屈辱的な表情を持つ人々は、現世で、他者の権利の侵害や圧制によっておいしい食事を用意し、恵まれない人々が、まずい食事しか口にできないようにしていましたが、そこでの食事は臭くて苦い茨のみです。その食事は彼らを太らせることもなければ、空腹を癒すものでもありません。

 

2つのグループのうちのもうひとつのグループは、悪を行い、悲しみと屈辱にまみれた表情の人々とは正反対で、最後の審判で、生き生きと喜びに溢れた表情をしています。

 

アル・ガーシーヤ章の第9節を見てみましょう。

 

「彼らは現世での自分の努力に満足している」

 

地獄の人々は、現世の努力から、疲れと苦しみ以外の成果を得られませんでしたが、天国の人々は、自分たちの努力の結果を最高の形で目にし、完全に満足しています。そのような努力には、神の恩恵によって倍の報奨が与えられます。10倍、あるいはそれ以上になることもあれば、神の無限の報奨を得ることもあります。善を行った人々は、天国に最高の居場所を持ち、そこでは無意味な言葉は一切口にされません。

 

明らかに、このような場所は安寧に包まれています。現世の生活で主に不快を感じるのは、意味のない嫌な言葉を耳にしたときです。そのようなとき、精神的な安らぎや社会的な秩序は崩れ、暴動の炎が煽られます。

 

 

アル・ガーシーヤ章は続けて、人々に対し、神の存在と、天と地における神のしるしに注目するよう呼びかけています。それらのしるしとは、光の中心である天、食べ物を育てるための大地、安定と平穏の象徴である山々、人間に与えられた、恵みの多い四足動物の象徴であるラクダです。

 

こうしたさまざまな恩恵について考えれば、人間はおのずと感謝をせずにはいられなくなります。そしてその感謝により、人間は恩恵の創造主である神のことを知ろうとします。天と地、山や動物がどのように創造されたのかに関して述べられていることは、この世界が無計画に創造されたのではなく、人間の創造もまた、目的を持ったものだということを示しています。コーランは、人々に創造の目的を教え、神に近づく道を示すようにと、預言者に語りかけています。とはいえ、人間が成長や向上への道を進むのは、自分の意志によってそれを決めたときです。そのため神は、預言者ムハンマドに対し、次のように語っています。「汝は決して、彼らにそれを強制することはできない。もしできていたとしても、そのような信仰に意味はない」

 

アル・ガーシーヤ章の第22節には次のようにあります。

 

「汝は彼らの支配者ではない。[だから彼らに信仰を強制することはできない]」

 

アル・ガーシーヤ章の最後の数節は、最後の審判で神のもとに帰され、清算が行われることを警告し、次のように語っています。

 

「間違いなく、彼らの帰る場所は我々のもとである。また明らかに、彼らの清算を行うのは我々である」

 

 

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