光の彼方への旅立ち、アンキャブート章(1)
コーラン 第29章 アンキャブート章 蜘蛛 第1節~第7節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第1節
「慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において。アレフ、ラーム、ミーム。」(29:1)
بسم الله الرحمن الرحيم
الم(1)
第2節
「人々は、信仰を寄せましたと言えば解放され、試練に立たされることはないと考えたのか?」(29:2)
أَحَسِبَ النَّاسُ أَن يُتْرَكُوا أَن يَقُولُوا آمَنَّا وَهُمْ لَا يُفْتَنُونَ(2)
第3節
「明らかに、我々は彼ら以前にいた人々をも試した。まことに神は、[信仰の告白において]正直である人々を知り、偽りを述べる人々のことも知っておられる」(29:3)
وَلَقَدْ فَتَنَّا الَّذِينَ مِن قَبْلِهِمْ فَلَيَعْلَمَنَّ اللَّهُ الَّذِينَ صَدَقُوا وَلَيَعْلَمَنَّ الْكَاذِبِينَ(3)
アンキャブート章も、コーランの他の一部の章と同じように動物の名前がつけられています。この章の第41節では、多神教信仰の基盤は蜘蛛の巣のようにもろくて不安定だとしています。
コーランでは、29の章がアラビア語のアルファベットで始まっていますが、この章もそのうちのひとつです。これまでの番組でも、これらのアルファベットには秘密が隠されており、神の奇跡であるコーランが、このような簡単なアルファベットで構成されていることを示し、「もしあなたたち人間にもできるのなら、こうしたアルファベットでコーランのような書物を作り、世界の人々に紹介してみせればよい」としています。
アンキャブート章の最初の数節は、歴史を通して、全ての人間に適用される神の包括的な掟に触れています。試練という掟は、人間の心のうちや目的、誰が本当のことを言っているのか、偽りを述べているのかを明らかにします。自分は真の敬虔な人間だとし、神に服従していると考えていても、信仰の道において、厳しく困難な状況に直面したとき、簡単に信仰を捨ててしまう人が常に存在します。その場合、その人たちは、考えらていたのとは違う人々であることが明らかになります。また中には、心に信仰がないのに、イスラム社会で生活しているために、自分たちの利益を守るため、信仰を持っているふりをし、表面的にイスラムを守る偽善者たちがいます。このような人々は、さまざまな問題が起こるとき、そのような二面性を明らかにするのです。
第1節~第3節の教え
● 信仰は、言葉やスローガン、主張に限られず、試練を伴うものです。人間は行動において、信仰を守るために身を捧げる用意があることを示さなければなりません。
● 試練は、歴史を通して神の不変の掟のひとつです。豊かな人間は富によって、貧しい人間はその貧しさによって、また権力を持つ人間はその権力で、弱い人間はその無力さによって。誰もが何らかの形で試されるのです。
第4節
「悪い行いをする人々は、我々に先んじていると考えているのか。何と悪い判断を下すことよ。」(29:4)
أَمْ حَسِبَ الَّذِينَ يَعْمَلُونَ السَّيِّئَاتِ أَن يَسْبِقُونَا سَاء مَا يَحْكُمُونَ(4)
第5節
誰でも神との面会に希望を抱く者は、[覚えておくがよい。]神の定めた時期は必ずやってくる。神はすべてを聞き、知っておられる」(29:5)
مَن كَانَ يَرْجُو لِقَاء اللَّهِ فَإِنَّ أَجَلَ اللَّهِ لَآتٍ وَهُوَ السَّمِيعُ الْعَلِيمُ(5)
試練の包括的な掟について述べた前の節に続き、この2つの節は、不信心者と敬虔な人間に話しかけ、不信心者に次のように警告しています。「彼らは、神の懲罰を逃れ、神の力を克服できるなどと考えるべきではない。神に対する彼らの反抗、敬虔な人間に対する嫌がらせは皆、彼らの行いに記録され、神の公正な裁判で判断が下され、懲罰が与えられる。また、信仰を持つ人々は、可能な限り神への服従と礼拝に努めなさい。敵の圧力やさまざまな問題によって信仰を捨ててはならない。最後の審判に関する神の約束は絶対である。その日、物質的な幕は取り除かれ、真理が明らかにされる。彼らは、神との間に何の幕もない場所に立たされ、真理をはっきりと目にする」
第4節~第5節の教え
● 罪を犯し、それを継続することは、人間の見方にマイナスの影響を及ぼし、創造世界の秩序と神に関して誤った見解に陥る原因となります。
● 罪を犯す人々は、神から与えられた猶予に高慢になってはなりません。そのような時間には限りがあり、最後の審判は必ずやってきます。善を行う人々も、忍耐を心がけましょう。神の約束は必ず実現します。
第6節
「誰でも神の道において努力する者は、自分のために努力する。まことに神は、世界の人々かの何ものも必要としない。」(29:6)
وَمَن جَاهَدَ فَإِنَّمَا يُجَاهِدُ لِنَفْسِهِ إِنَّ اللَّهَ لَغَنِيٌّ عَنِ الْعَالَمِينَ(6)
第7節
「また信仰を寄せ、ふさわしい行いをした人々、我々は間違いなく、彼らの過ちを覆い隠し、彼らが行った最高の行動に対し、報奨を与えるだろう」(29:7)
وَالَّذِينَ آمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ لَنُكَفِّرَنَّ عَنْهُمْ سَيِّئَاتِهِمْ وَلَنَجْزِيَنَّهُمْ أَحْسَنَ الَّذِي كَانُوا يَعْمَلُونَ(7)
信仰を持つ人は、孤立することはなく、積極的な人間です。そして、イスラムとイスラム教徒の成長、進歩のために努力し、必要な場合には、宗教の敵と戦います。当然のことながら、神は信仰を持つ人々や彼らの宗教を守るための努力を必要とはしていません。彼らが行うことの利益は、彼ら自身のものです。とはいえ神は、そのような人間には、特別な慈悲と恩恵を与えると約束しています。神は、彼らの過ちを赦し、彼らの行いに対してよりよい報奨を与えてくださるのです。
第6節 ~第7節 の教え
● この節にあるジハード・神の道における戦いは、敵との剣による戦いのみを意味するのではなく、あらゆる努力を意味しています。このような努力は、自己形成や欲望との戦い、政治、経済、文化の分野の敵の陰謀を退けるための努力など、全て神の道における戦いであり、その利益はイスラム教徒自身に届きます。
● 神の道において努力すれば、神は私たちの過ちや怠慢を赦し、私たちの苦労に対して最高の報奨を与えてくださいます。