8月 26, 2019 16:57 Asia/Tokyo
  • イランの文化遺産
    イランの文化遺産

前回は、皆様にこの番組の目的をお伝えし、文化遺産とは何かを定義し、それを精神的、物質的なものに分類し、イランの文化遺産とその略奪の歴史についてお話しました。イランの精神的な遺産として名高いものを知るためには、なによりも彼らの文化的、本質的な歴史について知る必要があります。2回目の今回は、イランの広大な文化圏についてお伝えしたいと思います。

古代文明を持つ国が抱える2つの領域

古い文明を持ち、国境を越えて他の土地にも影響を及ぼした国々は、2つの領域を持っています。一つは地理的な領域で、もうひとつは文化的な領域です。地理的な領域は明確な意味を持っており、各国で定められている国境線の範囲を指し、ほぼ固定されています。イランなどの古い国における地理的な境も、歴史的な栄枯盛衰により大きく変化し、その一部は、今私たちが話題に取り上げているもので、現在のその国の領土からは切り離されています。しかし、文化的な領域は、ある国の文化的領域にあった地域や、ある文明の精神的な影響を受けた広い範囲を意味するのです。

イランは歴史を通して、2つの領域を持っていた国の1つです。世界初の王朝と呼ばれていた、紀元前のアケメネス朝時代の初めから、イランは常に主要な領域以外にも、多くの属国を有しており、イラン北西部の遺跡ビーソトゥーンや、クセルクセスとして知られるハシャーヤールシャーの碑文、ギリシャの哲学者ヘロドトスの記述にも、その内容が記されています。

イランは1100年前以上に渡り、世界を征服した2つの勢力のうちのひとつとして提示されてきました。アケメネス朝は220年、アルサケス朝パルティアは476年、サーサーン朝は428年続きました。イランの過去の文明の宝庫は豊富で充実しており、イラン史やイラン文化の研究者、思想家によると、イランの歴史は多くの出来事や豊かな文化が存在するため、数冊の厚い本でもその真理を書き表せないほど、非常に複雑で奥が深いとされています。

イランは地理的、歴史的な点の双方から特別な重要性を持っていますが、これはその特殊な位置づけによるものです。イランは地理的には、最も古い時代から様々な文明の影響を受け、常に他の国と文化交流を行なっていました。こうした位置づけにより、イランは近隣の各地と関係を持ってきました。また、イランは最も古く活発な文明の1つの拠点で、それは断絶されることなく連綿と続いてきています。イランの人々は、アケメネス朝時代に世界初の包括的な統治体制を生み出しましたが、それはある程度、1つの世界的な統治体制を生み出すという思想を持ったものでした。この政治体制が世界的なものであることの徴は、キュロス大王として知られるクーロシュの政策においてだけでなく、イランの神秘主義にも反映されています。イランの人々は、イスラム伝来以後にも、政治的な皇帝の代わりに文化的な指導者を置き、中国の入り口から地中海まで、そしてインドからロシア南部まで版図を広げました。この領域の中で、最も偉大な人類の思想的、文学的な作品の多くが世に出たのです。

 

イラン民族の特徴とその移住ルートについて

イランの民族の明らかな特性のひとつは、彼らが地理的に活発な行動をとっていたことです。彼らは数千年間の歴史におけるどの時代にも、特定の国境が定められた地域に安住せず、地理的に広い範囲、即ち現実的には当時の文明世界の全域を移動しており、生き生きとしたこの行動力や流動性こそが、彼らの特性を形成することになりました。歴史的には、イラン人の住む地域は南シベリアからチグリス・ユーフラテス川流域、現在のトルコに当たる小アジアやインド、中国との境まで広がっていました。先史時代から18世紀前まで、イラン人はこの地域一帯にひろがり、文明圏にあった世界の多くを、自分たちの土地であるとしていたのです。

イラン人は、インド・アーリア系民族の一派とみなされ、紀元前2000年代の終わりごろ、彼らの本来の土地である中央アジアの北限から次第により暖かい地域に移住し、カスピ海北部からイラン高原に流入しました。フランスの考古学者グリシュマンによりますと、この移住は自発的なものではなく、他の中央アジアの一族の移住と同じように、寒さや他の部族の圧迫を理由に、北部の寒冷地域からより暖かい南に移住した、というものです。アーリア人ははじめ、現在のウズベキスタンに当たるソグディアナや、古くはモルギアナと呼ばれていた現在のトルクメニスタンのマルヴ周辺の地域に流入しました。そこから他の部族の攻撃により南に移住し、現在のアフガニスタンにあるバルフやイラン北東部のホラーサーンにたどり着き、そこからイラン領内に散っていったのです。

アーリア人の集団は2つに分類され、ひとつはイラン高原に移住したグループで、もうひとつはサカ人と呼ばれる人々です。古代において、サカ人は恐怖感の源とされ、(自分たちより)南部や西部に住む、より進んだ文明をもち定住生活を行っていた人々を略奪し、彼らの土地を破壊していました。こうしたサカ人は牧畜、遊牧生活、略奪戦争の文化を固持していました。しかしアーリア人の(中でのサカ人の)移住者は、イラン高原で半農と定住の文化に触れた後、文明化した定住生活を受け入れるようになり、地元の部族やアーリア人以外の文化と共存する道に進みました。こうして彼らは、荒野を移動し略奪を生業とするサカ人とは袂を分かつことになったのです。

アーリア人のイラン高原流入は、メディア人とともに始まりました。彼らははじめ、現在のイラン西部ハマダーンに当たるエクバタナや(テヘラン南部)レイに現れ、現在のイラン南西部フーゼスターンやチグリス・ユーフラテス川流域のイーラム(エラム)文明と関係を樹立しました。メディアの多くの人口ははじめから地元の人々と混合し、地元の人々を駆逐するのではなく、彼らを魅了しました。アーリア人は、イラン高原である人々に出会うことになります。それらの人々は、エラム人のように先進的な灌漑システムに基づく都市文明や農耕文明を持ち、この分野で数千年の長い経歴を有していたのです。

 

世界の古代文明に先駆けたイラン文明

『ケンブリッジ・イラン史』では、イラン高原における文明と定住生活は、アーリア人の流入以前である紀元前8千年までの歴史があり、こうした生活では家畜を飼育し、植物や穀物を栽培していた徴が見られる、とされています。イラン南東部のザーボルの遺跡で発掘された考古学上の発掘物も、イラン高原の一部であるこの地域で、およそ4000年前に数百ヘクタールの面積を持つ都市が存在し、この都市では陶製の配管が使用されていた水利施設をもち、労働の分業が行なわれ、職業上の集団が存在していたことを証明しています。アーサー・ポープのような一部の考古学者は、考古学的なデータに基づき、「農業やそれに関する壷つくりや織物業のような産業は、イラン高原で始まった」という結論に達しています。また、数々の重要な点から、この地の文明はエジプト文明の500年前に、またインダス文明よりは1000年、また、中国文明よりは2000年早く始まっていたとされています。

現在では、遊牧民の通過ルートになっている、イラン西部のロレスターンなどの多くの場所では、紀元前2000年から、人々の定住場所となっており、準砂漠地帯を含めたイランの多くの地域には、現在よりも定住生活が広まっていました。楔形文字による碑文には、定住化と農業や牧畜による経済が発展したことで、イラン西部の地域では、農業地帯と中心地によって構成された町が出現し、部族的な依存を超えたアイデンティティを持つ、国のような様相を示していたと記されています。

 

ペルシャ帝国の基盤を打ち立てたメディア人とパールス人

紀元前1千年紀に初めて、そして最大の帝国を築いたパールス(ペルシャ)人は、世界史の中で頭角を現す前は、イラン北西部のオルーミイェ湖周辺に居住しました。その後、いまだ良く分かっていない理由により、ある時期からイラン南部のファールス地方に移住し、メディア人に従属する形で政府を作りました。パールス人は、人種的、文化的にはメディア人に近く、多くの歴史家がメディア人の時代とパールス人の時代をひとつの時代として検討するほど、メディア人と様々な点で結びついていました。

メディア人とパールス人はイラン高原に移住してから、イラン高原の文明を滅ぼそうとせず、当時の一般的な手段とは逆に、文化的な交流や協力を行ない、エラム人はパールス人のアケメネス朝の最盛期において、メディア人と同じようにパールス人に近い協力者と認識されていました。

 

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