11月 03, 2019 19:25 Asia/Tokyo
  • モウラヴィー
    モウラヴィー

世界的に名高い13世紀のイランの神秘主義詩人モウラヴィーは、広大なイラン文化圏において活躍し、その高潔な思想は様々な言語に翻訳され、数多くの文学者や思想家に影響を与えています。

今回は、モウラヴィーの作品について検討し、その壮大な思想について考えると共に、モウラヴィーが世界的に名声を博している理由について、考えていくことにいたしましょう。モウラヴィーはなぜ、モウラヴィーとなったのでしょう。この詩人にはどのような特徴があり、またどのような条件が生まれたことで、彼は叡知の大海原をうねらせ、そこからこれほど多くの宝石をあふれ出させることができたのでしょうか。モウラヴィーの生きていた時代から800年近くが過ぎ去った現在もなお、多くの人々が彼の名作である『精神的マスナヴィー』という壮大な宝の恩恵にあずかり、彼の思想を活用しています。この流れは、今後も確実に続くことでしょう。モウラヴィーは、自分は小川を作りそれを流して、そこにやって来る人々を順番に座らせ、彼らがその水を飲めるようにするような存在だと考えていました。

モウラヴィーについては、次のような言い伝えがあります。彼がある時、友人の1人の部屋を訪ねると、その友人が自らの著作である『精神的マスナヴィー』を背もたれにしてよりかかっているところを目にしました。モウラヴィーは、この光景に怒りを覚え、次のように言い放ちます。

「この書物は、背もたれにしてよりかかるような物ではない。これはいずれ、世界に広まるだろう」 

モウラヴィーのこの予測は、現在見事に的中しています。その理由は、モウラヴィーがよい話を語り、自らの言葉の奥深さや美しさを認知しており、またどのようなものが後世にまで残り、或いは時代と共に廃れていくかを知っていたことにあります。

モウラヴィーの作品の研究者は皆、彼の作品が後世にまで残る名作となった主要な理由や秘訣が、シャムス・タブリーズィーとの運命の邂逅にあると考えており、モウラヴィーはシャムスと出会ってから、モウラヴィーになったと考えています。また、一部の人々の間では、モウラヴィーはシャムス・タブリーズィーに出会う前は、ガザーリーのような人物だった、と考えられています。アブー・ハーメド・モハンマド・ガザーリーは、当時イスラム法学や哲学、神学の分野で傑出した思想家であり、55歳という短い生涯においてこの上ない重要な著作を生み出すとともに、イスラム文化の歴史に大きな影響を与えました。

モウラヴィーは、ガザーリーを尊敬する人々のうちの1人であり、彼の作品を綿密に研究し、記憶していました。シャムスに出会う前のモウラヴィーは、他の一般のイスラム学者や説教師と同じような存在だったということです。しかし、シャムス・タブリーズィーとの出会いは、モウラヴィー自身が端的に指摘しているように、彼の人格に大きな変貌をもたらしました。モウラヴィーは、『ルーミー語録』という作品において、シャムス・タブリーズィーが自分に情愛という贈り物をくれたことを指摘しており、この時を境に、彼は情愛を見出した新たな人格により、不朽の名作を生み出すこととなりました。

モウラヴィーは、シャムス・タブリーズィーと出会う前は、自らも認めるとおり、威厳のある礼拝者でした。あらゆる階層の人々から尊敬され、受け入れられる博識な学者と見なされていたのです。しかし、この時の彼は決して、現在世界にその名を轟かせているモウラヴィーではありませんでした。シャムス・タブリーズィーがまず、モウラヴィーに対して行なったことは、彼を束縛しているしがらみを打ち破ったことでした。シャムス・タブリーズィーから見て、当時のモウラヴィーはいわば、様々なしがらみに翼を縛られている鷲のような状態にあり、シャムス・タブリーズィーはモウラヴィーという鷲の手足を縛っていたしがらみ、即ち家族や読書、社会的な職業や教職、友人や弟子たちとの行動や語らいから引き離し、彼を新しく生まれ変わった人間として解放したのです。

モウラヴィーの作品に見られる主な特徴は、彼の語る内容の目新しさです。モウラヴィーの語る内容は、決して読者を退屈させることがなく、その理由は斬新さにあります。彼は、自らのこの特徴を熟知しており、このために自らを新年の祝祭と自称しています。新年とは、年が改まる元日であり、人々が真新しい服を身につけ、世界が新しい衣をまとい、至るところに新鮮さがみなぎります。自らを新年の祝祭と自称するからには、モウラヴィーは確実に自分の内面においてこのことを経験し、自分自身の中で新しく生まれ変わることや、新年の祝祭であることを経験しているはずです。こうした経験により、モウラヴィーの語る内容は、退屈や古くなった感触を感じさせないものとなっています。モウラヴィーの著作は、何度でも繰り返し読むことができ、読むたびに新しい発見があります。このような特徴を持つ文学作品は、非常に珍しいといっても過言ではありません。

モウラヴィーは、過去と未来を打ち捨てており、このため、彼の語る内容は真新しく斬新なものとなっています。彼は、いわば大海原とつながっており、無尽蔵の言葉の大海原や宝庫を持っている人物は、常に新しい言葉を持っており、いつでも沢山の真珠の入った貝を顧客に提供することができます。ですから、大勢の顧客が殺到してきても決して困ることはなく、品切れを心配する必要はありません。モウラヴィーは欠乏を憂えることなく、大量の宗教的な叡知や知識を読者に披露しているのです。

モウラヴィーは、悲しみを知らない神秘主義者の1人です。神秘主義者としてのモウラヴィーに、悲しみは存在しません。彼は、愛情という幸福に到達し、これを様々な方法で活用しています。モウラヴィーの魂と心の瞳は満ち足りており、彼は『精神的マスナヴィー』において愛情が満ち足りた状態をもたらし、愛情により空腹を征服したと共強調しています。モウラヴィーの教えでは、人間に満ち足りた感情をもたらす源は2つあり、その1つは愛情で、もう1つが信仰心だとされています。信仰は清らかな食物であり、人間は、これを食することで、この上ない満腹感を感じるものであり、愛情もこれと同様のものです。

シャムス・タブリーズィーはモウラヴィーに対し、現世へのしがらみに囚われることは、無限の世界という大空に飛び立つことと矛盾することを教えており、このためモウラヴィーにある取引を提案しています。それは、決して勝利の望みのない取引でしたが、モウラヴィーはリスクを受け入れる人間でした。彼は、愛情とは何物にも無関心になり、何事をも恐れないものだと信じていました。即ち、後先の結果を考えず、損得勘定を行なわないことになります。彼は、愛情のみに清らかな戯れを求めていましたが、これは即ち何かを得るという望みなしに、全ての物事に敗北することです。また、愛情とは、愛する対象の一部ではなく、全てを求めることを意味します。シャムス・タブリーズィーはモウラヴィーに対し、何らかの見返りを期待することなく全ての物事を犠牲にすることのみを求め、モウラヴィーもこれに従いました。

このため、愛情もモウラヴィーに味方し、全てのものを与えました。即ち、モウラヴィーの解釈で言うところの、世界という酒場、即ち名作を生み出す詩才が彼に与えられたのであり、全ての扉を開けることの出来る鍵の束が与えられたことになります。

 

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