ハージェアブドッラー・アンサーリー(5)
今夜は、前回もご紹介した11世紀のイランの神秘主義詩人で、コーラン解釈や伝承学の分野でも名高い、ハージェアブドッラー・アンサーリーの作品に触れ、その思想についてご紹介することにいたしましょう。
前回は、ハージェアブドッラー・アンサーリーの生涯を振り返り、彼の作品やその様式についてお話しました。また、彼の作品の中から、『祈祷の書』をご紹介し、その内容を検討いたしました。この番組では、時間が限られているため、現存するハージェアブドッラー・アンサーリーの作品に的を絞り、彼の思想を貧しさと豊かさ、学問と叡智、そして神にすがることという幾つかの側面から考えてみたいと思います。
神秘主義で言うところの「本当の豊かさ」
貧しさと豊かさは、神秘主義文学をはじめとするイラン文学では非常に古い歴史を持ち、高く位置づけられています。貧しいこととは、言葉上は托鉢僧のように何も持っていないことを意味します。これに対し、豊かさとは、裕福で他者を必要とせず、恵まれていることと解釈されます。ですが、神秘主義者の視点から見た豊かさとは、本当の意味で裕福で恵まれていることであり、これは神に特有のものです。こうした見解では、豊かさとは神の僕である人間が、現世やそこにいる人々の一切を必要としない段階に達した精神を意味しており、それは神を見出したがゆえに神以外のものに注目しないことによります。
ハージェアブドッラー・アンサーリーは、『100の分野』という著作において、コーラン第93章、アッ・ゾハー章「黎明」、第8節を引用し、豊かさを力」を持つことと解釈するとともに、神の僕である人間の力を、物質的な豊かさ、内面的な豊かさ、そして心の中の豊かさの3つに分類しています。物質的な豊かさは、一般の人々の見解では、多くの物質的な富や財産を意味します。ですが、神秘主義者は物質的な富に対しても異なった解釈を持っています。彼らは、そうした富や財産が人間の堕落や退廃の原因を作ると考えており、そのために富や財産、地位などの世俗的な事柄から目を背けるのです。ハージェアブドッラー・アンサーリーは、仮に正当な方法で得た富や財産でさえも災いであると見なしており、修行者たちに神の道を奨励するとともに、富の蓄積を回避し、自らをこのような災いに陥れないよう警告しています。
ハージェアブドッラー・アンサーリーの見解では、物質的、精神的に満たされた状態は、人間が到達すべき状態だとされています。真理の道における修行をする上で最大の難関は、自分の内面的な欲求に気を取られて、それに従ってしまうことです。内面的な欲求の特徴は、誘惑によるものであり、自らの内面的な欲求に流されてしまう人は当然、神の満足のための歩みを進めることができなくなります。ハージェアブドッラー・アンサーリーの考えでは、自分の内面の豊かさとは神にすがることを意味します。真理の道にそった修行者が、心の内面の豊かさに到達するのは、世俗的、物質的な利益を必要としなくなり、心が神に到達した時のみなのです。
ハージェアブドッラー・アンサーリーの見解では、心の豊かさは自分の内面の豊かさと物質的な豊かさから得られるとされています。修行者は、物質的な富や自分の内面的な欲求を必要としなくなり豊かになると、事実上心が豊かになり、心に神が宿ります。こうした修行者の心は、全世界や世界の人々のいずれも全く必要としていません。それはその人の心が神を見出したからです。ハージェアブドッラー・アンサーリーの考えでは、神の僕である人間はこうした豊かさのもとでこそ安らぎを得るものであり、その安らぎは7つの天地よりも広大であるとされています。
一方で、豊かさとは正反対にある、托鉢僧のような貧しさは、神秘主義においては高潔な神を必要としていることを意味します。托鉢僧は、現世や現世に存在するものには一切執着しません。神秘主義者は、貧しく托鉢僧のような状態になることで、神人合一の境地に達し、本当の豊かさを手に入れるのです。
学問と宗教的な知識の双方の必要性
一部の神秘主義者は、修行のプロセスを経る上で必要な事柄は、学問という糧を携帯することだと考えています。なぜなら、彼らの考えでは一部の修行者が正道から脱線してしまう原因は彼らの無知にあるとされているからです。彼らは、神秘主義の原則や修行の方法や慣習について知識を得る前に修行に入ってしまい、多くの場合において誤りを犯してしまうのです。
ハージェアブドッラー・アンサーリーは、次のように考えています。
「学問は、神秘主義者にとって足かせのようなものだが、学問のない神秘主義者は悪魔でしかない」
ハージェアブドッラー・アンサーリーの考えでは、神秘主義者にとって無知であることは毒物のようなものであり、修行者は無知により真理の道を滅ぼしてしまうとされています。彼の見解では、神秘主義者の修行のプロセスにおいて、学問は修行者の進路を照らすともし火のようなものなのです。
ハージェアブドッラー・アンサーリーは、修行者が学問のみを蓄積することを好まず、学問と宗教的な知識の双方をともに蓄積することを強調しています。彼は、宗教的な知識と悟りこそ学問の精神であり、それを伴わない学問を非難しています。彼の見解では、学問は修行者の進む道を照らす明かりであり、宗教的な知識は修行者がさらなる高みに至るための梯子だとされています。また、彼は真理に至る道が学問の獲得の中で中断されてはならないと考えています。即ち、修行者は真理を悟り英知を獲得するために学問を活用すべきなのです。修行の道は、修行者が英知と学問の助けにより、階段を一段ずつ上り、神にまみえる高い場所に到達するための梯子なのです。
神をより所とすることの重要性
ハージェアブドッラー・アンサーリーが注目したもう1つの論点は神をより所とすることです。神にすがることとは、宗教的、倫理的な表現であるとともに、神秘主義的な表現でもあります。イランの学者アリー・アクバル・デホダーの編纂した最大規模のペルシャ語辞典では、このすがる、より所とするという言葉の意味は、誰かを信用して頼り、自分にはできないことを認めることとと解釈されていますが、神秘主義哲学の辞典では、この言葉が特別な意味に解釈されています。即ち、ここでは自分の信頼する人物に何かを委託することを意味するのです。委託するその相手は、力があり信頼できる人物でなければなりません。
神秘主義においては、神にすがるという概念は神秘主義者や唯一神を絶対に信じる特定の人々のみが理解できる事柄です。神秘主義者の見解では、神にすがるという概念の認知の基準は、神を信頼し、神以外のものを自分から切り離すこととされています。ハージェアブドッラー・アンサーリーの考えでは、神にすがることよりもさらに上の概念として、神への服従があり、これは修行者が神の道において自らを神に委ねることを意味します。別の解釈として、ハージェアブドッラー・アンサーリーの見解では、神にすがることとは物事を神に委ね、神に完全に服従することとされています。また、人間が自分の宗教や日々の糧などすべての事柄を神に委ねることで、その人は長く苦しい道を進み、高い地位を得て、多くの段階を経験することになります。
ハージェアブドッラー・アンサーリーから見て、神にすがることは一般の人々の行為であり、神に屈することは特定の人のすることとされています。彼の見解における一般の人々とは、神秘主義の修行をする人であり、神秘主義の道を歩み、真理を悟るために長く困難な道を進んで、多くの難関や段階を超えていく人々です。神にすがることは、まさにこうした段階の1つですが、神への服従は神を愛する人々に特有のものです。この段階に達した人は、神に到達することの醍醐味を味わっているのです。
ハージェアブドッラー・アンサーリーの見解では、修行者はまだ道の途中にあるとされています。それは、その人が自らのすべきことを神に委ねたのみであって、自分自身や自らの運命を神に委ねておらず、神に服従していないからです。ですが、神に屈した人は神が自分に対して施した措置を受け入れ、安らぎを得ています。その人は、自らを神に委ね、神だけを求めており、神の定めに服しています。なぜなら、その人は物事の良し悪しは人間の意識の中で作られたものであり、神が人間のために選び、与えたものはすべて絶対的によいものであると信じているからなのです。
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