11月 20, 2019 13:43 Asia/Tokyo
  • アブルヴァファー・ブーズジャーニー
    アブルヴァファー・ブーズジャーニー

前回は、10世紀のイランの著名な天文学者で、数学者でもあるアブルヴァファー・ブーズジャーニーの生涯と、この偉大なイラン人学者の業績についてお話しました。彼は幾何学や三角法、数学、応用幾何学、天文学などの発展に重要な役割を果たしています。今回も引き続き、この偉大な学者についてお話することにいたしましょう。

ブーズジャーニーの生涯のあらましと主な業績について

前回もお話したように、ブーズジャーニーはイラン北東部のホラーサーン地方でこの世に生を受け、、生まれ故郷にて自分のおじたちのもとで学問の基本を習得しました。彼が学問の習得のため、現在のイラクの町バグダッドに赴いたのは、二十歳の時でした。彼は、その後997年ごろにこの世を去るまでバグダッドにとどまり、この地で埋葬されています。

ブーズジャーニーは、生きていた時に既に偉大な学者として知られ、アブーレイハーン・ビールーニーといった同期の一部の学者らとも学術的な交流を行っていました。ビールーニーは、中央アジアのホラズム地方に滞在していたとき、バグダッドにいたブーズジャーニーと、月食の観測のために連携し、2つの異なる地点で行われた観測結果を互いに比較しています。

さらに、ブーズジャーニーは幾何学や三角法、計算法、応用幾何学、天文学などの分野でも相当の貢献をしていることから、算術家、そして幾何学を知る技術者とも呼ばれており、彼のこうした功績を称え、月の表面にあるクレーターの1つはアブルヴァファーと命名されています。

ブーズジャーニーは、数学の発展の第3期に生きており、彼の著作はこの時代の数学の明白な様相を示しています。数学の発展は、徐々に一貫した進歩を遂げるという形ではなく、段階的な形を取り、一定の時代ごとに新しい法則が発見されることにより、また理論と実践の連続により実現します。

 

数学の発展の時代区分について

数学の発展の最初の時代は、紀元前6世紀と5世紀に当たります。この時代の数学は、応用的な傾向を持っており、それとともに論証学などの学問が形成されます。数学の発展におけるこの時代の形成には、多かれ少なかれ全ての国の国民が関係しています。

数学の発展の第2の時期は1000年近くに及び、その中心は当初はギリシャであったのが、その後は現在のエジプトのアレキサンドリアに移りました。この時代の数学の特徴は、理論的なもので、論証や論理的な結論の引き出しが、経験や推論にとって代わっています。

第3の時期は、中世を含む8世紀中盤から16世紀初頭までの時代であり、事実上数学が応用的な傾向を見せて発展した第2の時期に当たります。また、この時期は第1の発展の時期よりもはるかにレベルが高く、過去における数学の分野での業績を全て活用しており、推論による問題を全て解消しています。

第3の時期には、数学の理論的な側面が充実しましたが、重要なのは当時最も難しい問題を解く努力がなされるようになったことです。この時代の数学の研究における最も重要な部分を担ったのは、イスラム教徒のイラン人の数学者たちであり、そうした人々には、ムーサー兄弟やフワーリズミー、ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニーがおり、彼らの後の時代は、やはり理論的な側面が強まった第4の数学の時代が訪れます。この時代の研究は、主に西ヨーロッパ諸国で続けられました。

イラン人の数学者は、単にギリシャの数学書を翻訳、注釈し、過去の遺産として西洋諸国に引き継がせるために維持したのみならず、数学の発展における1つの完全な時代を形成し、数学の理論的な側面をさらに充実させました。彼らは、新たな方法や学派を打ち立て、自らの応用的な傾向に注目して、ほかの学術知識の原動力となり、数学の発展の次の段階が始まる下地を整えたのです。

 

イスラム文明の黄金時代、ブワイフ朝時代

科学史の研究家は、10世紀を「イスラム文明の黄金時代」と呼んでいますが、これは当時のイランの広大な領域とイラクを、イラン系の王朝であるブワイフ朝が支配していたこの時代に、自然科学や哲学が非常に盛んであったことによります。理論的学問においても、数学や天文学が目覚しく進歩していました。ブワイフ朝のアズドッドウレ王の重要な功績としては、高等教育機関、そして特に哲学者や学者、文人が宗教や哲学、学術的な問題について議論し合う学術的、哲学的な組織の設立が挙げられます。

アズドッドウレは、全ての学者や哲学者、宗教学者や倫理学者を奨励し、アラビア語による文学書や学術書の執筆に向かわせましたが、イラン文化の復活にも多大な関心を寄せていました。ブワイフ朝の政策により学術的な雰囲気が生じていたことから、ブーズジャーニーなどの多数の学者や哲学者が、自らの故郷を離れて、バグダッドに移住してきました。バグダッドは当時、イスラム世界の重要な学問の中心地であり、イランの都市のような様相を帯びていました。

ブワイフ朝で最もよく知られていた王アズドッドウレは、学問を特に日常生活の改善のために利用すべきだと主張していました。このため、この時代には自然科学や数学は好奇心を満たすためではなく、社会状況の改革や進歩のために教えられていたのです。この時代の学者たちの著作の序文からは、当時における研究への関心や学問を愛好する傾向があったことが推測できます。当時、バグダッドは学問の一大中心地と化していました。バグダッドで研究に励む学者たちは、より多くの学識や学問的な経験において、もはやギリシャ人の巨匠たちのやり方にとらわれることなく、次第に応用科学を築くようになっていったのです。

ブーズジャーニーの著作について

このため、アズドッドウレと同時代を生きていたブーズジャーニーは、実践的な幾何学と算術における2つの重要な著作を著したと言われています。その2つの著作は、『算術家と書記に必要な算術』、そして『職人が必要とする幾何学の実践』であり、応用数学の代表例とされています。彼は、こうした傾向をもって、応用数学に関するそのほかの論文も執筆しました。また、これらの論文のうちの1つにおいて、異なる2つの方法により、バグダッドからイスラムの聖地メッカまでの距離を算定し、さらにこの方法でほかの都市の間の距離も算出できるよう一般化しています。ブーズジャーニーのこの論文も、彼のそのほかの著作と同様に、この偉大なイラン人学者の知識の幅広さと計算の正確さを物語っています。

ブーズジャーニーは、非常に多くの著作を著しましたが、現在それらの多くは残っていません。しかし、彼の著作の一部は、10世紀のシーア派イスラム教徒の学者イブン・ナディームの目録書に出てきています。そのうちの1つには、『完全な天文表』という題名がついており、イブン・ナディームによればこの著作は3つの論文だったとされています。1つ目の論文は星が動く原因に関するもので、2つ目の論文は、星の動きについて、そして3番目の論文は、星の動きに影響を及ぼす要素について書かれています。

天文学と数学における、ブーズジャーニーのもう1つの重要な書物は『アルマゲスト』であり、その写本の一部はフランス・パリで紹介されています。この書物の一部は、ブーズジャーニーと彼の仲間たちがバグダッドにて記録した観測の結果であるとされています。この著作の序文において、彼は幾何学の命題の証明においては幾何学上の方法を、そして普通の命題では数的な論証を用いており、学問に詳しくない人が問題に遭遇しないように配慮していると述べています。この著作の注目すべき点は、専門書でありながらブーズジャーニーがこれを平易な内容に執筆していることです。また、この著作は三角法、観測についての三角法の利用法、そして惑星に関する仮説、の3編に分かれています。

 

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