イラン人の風俗習慣;クルド人(2)
今回は、前回の番組に続き、クルド人の風俗習慣についてお話しすることにいたしましょう。
クルド民族は、コルデスターン、ケルマーンシャー、イーラーム、西アーザルバイジャーンの西部の州、また北東部の北ホラーサーン州に住んでいます。
クルド民族の口承文学、伝統文学は、他のイランの民族と同様豊かなものがあり、イランを訪れた外国の研究者の多くを引き付けています。19世紀初頭、ガージャール朝のファトフアリーシャーの時代にイランを訪れたドイツの東洋学者は、イランのクルド人の口承文学の一部を集め、書籍にまとめました。この書物はクルド人の口承文学に関する資料となっています。クルドの口承文学には、伝説、物語、格言、伝統的な遊び、対句や民謡を含む韻律の取れた歌などがあります。今夜の番組では、クルド人の口承文学の一部をお話しすることにいたしましょう。
クルドの口承文学独自の枠組みに、対句があります。対句は通常長いもので、語りの形で伝えられます。そのテーマは様々で、人々の生活に融合しており、実際クルド人の生活をよく反映しています。対句の最も重要なテーマに英雄伝、神秘主義、宗教、道徳、愛情、社会の問題などがあります。
クルドの対句の中で最も重要なものに、愛情や悲哀をテーマしたサヤドヴァンという対句があります。また他の対句にも特別な道徳的メッセージを含むものがあります。
クルド人の伝説も、他のイランの伝説と同じように、この土地の口承文学において特別な地位を有しています。クルド人の伝説はクルド語により、優美な形式を有しており、他の言葉に翻訳して聞き手に伝えるのは困難でしょう。伝説は、戦闘、希望、宗教的信条、誇り高い人生を続けるための大規模な努力に溢れています。伝説においては、シンプルで誠実な宗教的信条が語られており、複雑な謎は含まれていません。実際、伝説は人々の生活の特徴を反映するもので、それにより一種の人間関係と互いの対応方法を分析することができます。クルド人の大衆物語の中にも、イランの他の民族と同じように、社会の各階層の人物を象徴する動物が出てきて、ときに小動物が驚くべき偉業を遂げ、圧制者を打ち倒します。いずれにせよ、どの物語にも教訓があります。それではここで「オオカミとキツネ」というクルドの物語をご紹介することにいたしましょう。
「オオカミとキツネ」何日もおなかを空かせていた狼が、ある村の近くを通りました。見るとにわとりの巣があります。耐え切れずにわとりの巣を攻撃し、一羽の雄鶏をつかんで逃げました。村の人々はそれを知り、オオカミを探しました。人々は「オオカミよ、どこへ行った?」と叫びながら方々を探しました。何匹かの犬も狼を追いかけ、 大きな騒ぎとなりました。オオカミは村のそばの丘をこえ、反対側に下りました。すると、そこでキツネが眠っているのを見つけました。キツネはオオカミの足音で目覚めました。オオカミは不機嫌にうなりました。キツネは尋ねました。「なぜそんなに不満そうなのです?どうしたのですか」。オオカミは答えました。「どうしたら不機嫌でおらずにいられよう?しばらく前から腹を空かせ、あちこち放浪して、ついに今日ある村にたどり着いた。そしてこの雄鶏を盗んだ。さあ人々が騒ぎたて、私を探しまわって何を言っているか聞いてみれば、一人は「立派な雄鶏だったのに」と言い、もう一人は、「30キロある」と言っている。また別の一人は「50トマンの値打ちがあったのに」と言う。見ての通り雄鶏はそれほど太ってはない」。キツネはいいました。「それでなぜ不機嫌なのです?それを地面に置いて下さい。私があなたのためにどれくらいの目方があるのか見て差し上げましょう。人々の話など忘れてしまいなさい」。オオカミは雄鶏をキツネに渡しました。キツネは少し遠ざかって、目方をはかるために石を探すふりをしました。そして「兄弟よ、心配しないでください。これは確かに30キロあります」といってきつねは雄鶏を盗んで逃げてしまいました。
この物語はどの社会においても、上には上がいる、さらにずる賢い人がいることを忘れて、ふさわしくない行動を取る人がいる、ということを指摘しています。
クルド人はさらに、多くの格言や比喩表現を持っており、それらは彼らの祖先の経験、思想、助言を示すものとなっています。番組の最後にクルドの格言をご紹介することにいたしましょう。「食べすぎるほど甘すぎず、吐き出すほど苦すぎず」これは他者への対応において中庸さを守りなさい、という意味です。
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