12月 29, 2019 14:13 Asia/Tokyo
  • アリー・ブン・ホジュヴィーリー
    アリー・ブン・ホジュヴィーリー

今回も11世紀のイランの神秘主義思想家、ホジュヴィーリーについてお話しすることにしましょう。

ホジュヴィーリーは、イラン、インドで盛んに支持されている人物です。ホジュヴィーリーの廟は現在のパキスタン・ラホールにあり、そこは巡礼地となっています。

前回までは、ホジュヴィーリーの生涯について扱ってきました。ホジュヴィーリーは10世紀末から11世紀にかけての人物で、現在のアフガニスタンのガズナで生まれました。かれは当時の学問や提示された問題について学び、知り、それらに精通するようになりました。

ホジュヴィーリーはコーラン解釈学、イスラム法学を故郷のガズナで学び、学問を求めて長期間にわたる旅を始め、多くの師に弟子入りしました。ホジュヴィーリーの旅の終着点は、ラホールで、この町はイラン北東部から続くホラーサーン地方とインドの境に位置していました。この地で、ホジュヴィーリーは著書、『隠されたるものの開示』を完成する機会を得ました。

ホジュヴィーリーはラホールでおおくの奉仕を行い、多くの弟子を取りました。また、『隠されたるものの開示』は5章立ての作品で、2つの基本的な事柄とは人間と神の関係と、欲望との向き合い方であり、それぞれの部分は独立しているのにもかかわらず、つながりを持っています。それでは、この作品の重要な要素の一部についてみていくことにしましょう。

この書における要素のひとつは、ホジュヴィーリーの教師のような言葉遣いにあります。ホジュヴィーリーは序章で、同郷の友人であるアブーサイードに、この本は彼や読者のために記された著作であり、このことは本のいたるところに反映されているとしました。

「何々だと知るべきである」、「何々をみよ」という言葉や、二人称単数が使われていること、警告や説教が行われていることは、ホジュヴィーリーの教育のあり方を示しています。ホジュヴィーリーがこの著作の中で使った物語や例えばなし、コーランやハディースはすべて、自身の立場を明確にし、この本の教育的な側面を強化するためのものです。

『隠されたるものの開示』の中の、ホジュヴィーリーの語りかける文体や対話、質問、読者に対する答えは、あらゆる部分で見られ、これはこの本の各部分のつながりを強化する中で、大きな効果があります。また、彼は、神の叡知に対する人間の無知を説明するため、「私の知識は、自分がいまだ無知だということを理解したところに達した」しています。

『隠されたるものの開示』の重要なテーマのひとつは、論争です。ホジュヴィーリーの説教のような教育的な言葉と読者に対する対話に加えて、『隠されたるものの開示』における、多くのテーマは、質問と応え、対話の中で提起されています。

たいていの場合、ホジュヴィーリーは内容の1側面を単調に語るのではなく、論争的な方法をとっています。彼はこの方法の中で、特に反対派の個人や宗派の見解を提示した後で、彼らに対して語りかけ、質問しています。反対派が語るであろう答えを提示し、その後、自身の見解を述べ、結論付けています。言い換えれば、ホジュヴィーリーは反対派の見解を否定しようとする際、しばしば理性による推論を行い、しばしば、説教師のように、質問を投げかけ、これに関して議論しています。

ホジュヴィーリーは、神秘主義の偉人たちの言葉について説明する中でも、対話や、質疑形式を使っています。この形式は、ほかの神秘主義的な作品の多くにも見られます。文芸評論家によれば、この形式を使うことで、本の影響度を大いに高めるということです。ホジュヴィーリーは通常、これに関して、複合文の最初の動詞に一人称複数を使っています。この形式を用いることで、読者も自分と同調させようとしています。たとえば、次のような文章に、その特徴が見られます。

「神秘主義の修行者が、チグリス川に落ちたが、泳ぎを知らなかった。ある人が岸から、『川から引き上げることのできる誰かを呼んでほしいか』と聞くと、神秘主義者は『いらない』といった。そこでその人は『溺れたいのか』と聞くと、神秘主義者は『いいや』といった。ではどうしてほしいのかと聞くと、修行者は『神の望みに対して、私が望んだところで何がかなえられようか』と答えた」

 

そのほか、『隠されたるものの開示』に関して、単語や動詞、表現、テーマ、相反するな見解について語るべきでしょう。この著作のあらゆる部分には、様々な対照となる組み合わせが数多く見られ、神秘主義の偉人の言葉なども、この見方から検討することができます。

ホジュヴィーリーは様々ケースで、このような対照となる言葉や思想を同列に並べ、様々な見解について議論しています。しかし、それはただ対極にある、ということではありません。『隠されたるものの開示』における対照物の中には、神と人間、人間と欲望という2つの対照が思想の中心となっています。

『隠されたるものの開示』の、およそすべての場所で、この対照を見ることができます。ホジュヴィーリーはある章で貧富の比較を行っており、神と僕、富める者と托鉢僧、といった対照となるものが、この章におけるホジュヴィーリーの見解や推論の枠組みとなっています。

コーランやハディース、言行録などの多くの文書も、ホジュヴィーリーの『隠されたるものの開示』で検討されるべき事柄となっています。ホジュヴィーリーは内容を明らかにし、説明するとき、自身の言葉を信用あるものにするため、コーランやハディース、言行録、宗教的な偉人の言葉を引用しています。この特徴は、様々な部分において共通であり、文芸評論家の見解によれば、このために文章のまとまりが強まっているということです。

「すべきである」「すべきでない」「正当である」といった言葉は、この作品の中でよく使われており、文芸評論家は、こういった言葉を注意深く見ることで、ホジュヴィーリーの教育的な言葉や確信、強さがよりなどが明らかになると考えています。この本は神秘主義的教育を目的にしており、その中で警告などが行われています。

また、この本の特徴のひとつ、各章に副次的な項目をつけて分けていることがあります。この書では、議論を始める前に、各章の言葉を繰り返していますが、これは文章の統一に重要な役割を果たしています。

 

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