1月 21, 2020 14:07 Asia/Tokyo
  • モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓
    モウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーの墓

今回は、15世紀のイランの優れた数学者で天文学者、コーラン解釈者のモウラーナー・ホセイン・ヴァーエズ・カーシェフィーについてお話しましょう。

カーシェフィーはさまざまな分野で価値ある貢献を行い、後世に残る作品を記しました。

キャマーロッディーン・ホセイン・ビン・アリー・サブゼヴァーリーことカーシェフィーは、ティムール朝時代のイランの多くの書を記した作家で、宗教学者で天文学者、コーラン解釈者で数学者、そして影響力を持つ説教師でした。カーシェフィーという名前はペンネームで、詩を作るために選んだ名前でした。彼は人々に説教や忠告を行っていたことから、説教師という意味のヴァーエズという名前で有名でした。

ヴァーエズ・カーシェフィーはイラン東部のホラーサーン地方にあたるサブゼヴァールに生まれました。正確な生年月日については今のところわかっていません。カーシェフィーは初等教育を当時は学術都市だったサブゼヴァールで学びました。当時、サブゼヴァールはイスラム学やイスラム法学が盛んな場所で、美しいモスクや宗教学校であるマドラサがありました。この町のイスラム法学者は、当時、イスラム法学を学び、教え、説教師として働いていました。つまり、カーシェフィーが育ち、イスラム界にその名声をとどろかす環境が整っていたのです。

サブゼヴァールのヴァーエズ・カーシェフィーのモニュメント

カーシェフィーはティムール朝の末期に生きた人物で、前回までの番組で紹介したアリーシール・ナヴァーイーや、ホセイン・バイカラと同じ時代の人でした。カーシェフィーは宗教学、数学、書道を若いころに学び、その後、神秘主義思想を学びました。彼は当時の学問すべてに精通していました。

カーシェフィーはコーラン解釈学やハディース学など、演説や作家としての技術、数学、天文学などさまざまな学問を学びました。彼は長い期間にわたりサブゼヴァール、イラン東部のネイシャーブール、マシュハド、そして特に現在のアフガニスタンに当たるヘラートで、説教師などをつとめました。彼は美しい魅力的な言葉により、人々に導きを与えていました。言い伝えによれば、彼は美しい声で説教や忠告を行い、適切な指摘により、コーランの説の意味や、預言者ムハンマドの伝承の難しい部分や秘密を解説していたということです。

カーシェフィーはサブゼヴァールの高名な学者の近くにいた後、彼が夢で見たことにより、サアドッディーン・カーシュガリーを探して、ネイシャーブールやマシュハドに向かいましたが、この人物がヘラートで亡くなっていたことを知ります。その後、この人物の墓を訪れるためヘラートにいき、彼の墓で、イランの高名な詩人ヌーロッディーン・ジャーミーと知り合いになりました。ジャーミーはカーシェフィーに神秘主義のナクシュバンディー教団の原則と教えを伝え、これによりカーシェフィーはナクシュバンディー教団に入りました。

カーシェフィーは当時の学問に精通し、この分野で活動を行うとともに、生涯の多くを説教や、人々や為政者の指導に費やしました。彼は説教において当時最も優れた人物で、彼の説教が行われる会合は人だかりができたといわれています。また、彼は説明が巧みだったともいわれています。このため、聴衆をより多く魅了していたのです。言い伝えによれば、彼は心に響くような形でコーランの節を読み、預言者の伝承を適切な表現によって語っていました。

ホセイン・バイカラが1469年にティムール朝の王になった後、カーシェフィーの地位はこれまで以上に高いものとなりました。ホセイン・バイカラの学識ある大臣、アリーシール・ナヴァーイーは、カーシェフィーに多くのペルシャ語作品を記すように薦めた人物でした。このため、カーシェフィーの著作には、ホセイン・バイカラとアリーシール・ナヴァーイーの名前がよく見られます。この時代、ハディース学やイスラム法学の大家の象徴だったヘラートの説教師という地位が、カーシェフィーに与えられました。カーシェフィーは毎週金曜日の未明、ティムール朝の王の謁見室で、金曜礼拝の後のナヴァーイーの会合で、また毎週火曜日、王のマドラサで、毎週水曜にもそのほかの場所で説教を行っていました。

カーシェフィーの説教会は、王であるホセイン・バイカラとその側近たちも参加するものでした。ナヴァーイーは彼の説教会について、次のように記しています。

「モウラーナー・カーシェフィーは皆に知られている人物で、大変すばらしい説教師であり、この世には彼ほどの説教師は存在しない。彼の説教会は雄弁であればあるほど、人があふれかえっている。死者が出るのではないだろうかと懸念するほど、人だかりができていた。人々が集まる理由とは、彼の語る調子と言葉の並びで、それは究極の美であり、また預言者のダーウードのような語り口だったためだ。預言者ムハンマドの共同体において、ダーウードのような性質を完全な形で持っていたのは、預言者ムハンマド以外ほかになかった。カーシェフィーは学識があるだけでなく、世界でも傑出した演説の技術をもっていた。彼の説教の会には、カーシェフィーの説教の内容をすべて韻文にし、説教の後、それを人々に聞かせた人物がいた」

そのほかのカーシェフィーの性質として、天文学などに精通していたことが上げられます。ナヴァーイーは著作の中で、この点について触れています。カーシェフィーと同じ時代に生きていた歴史家のハンダミールも、これについて言及しています。カーシェフィーの『7部作』は、天文学に関する著作で、彼の解釈学に関する業績も、コーランに対する彼の関心や、コーラン解釈にいかに精通していたかを示しています。これらすべてに加えて、彼の文学や歴史における専門性も、賞賛に値すべきであり、その専門性により、彼は歴史に関する著作を文学的な形でしるし、注意深く歴史学について考慮する以上に、美しく心を動かす散文体に重点を置いています。

多くの歴史家や著述家は、カーシェフィーが亡くなった年をイスラム暦910年、つまり西暦の1505年、場所をヘラートとしています。彼にはファフロッディーン・サフィーアリーという息子がおり、彼も父と同じように名声ある説教師で、著作も記しています。ファフロッディーンもナクシュバンディー教団に属し、イスラム暦939年、西暦1533年になくなりました。

 

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