イランの名声、世界的な栄誉
タギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニー(3)
今回も前回に続き、16世紀から17世紀にかけてのイランの著述家で、辞書の編纂家である、オウハディー・バルヤーニーについてお話しすることにしましょう。
前回、お話したように、タギーオッディーン・オウハディー・バルヤーニーは、モイーノッディーン・ムハンマド・バルヤーニーの息子として、1556年ごろイラン中部イスファハーンで生まれました。バルヤーニーの一族は神秘主義において有名な家系でした。彼は、アラビア語の文法や論理学、数学、コーランを12歳まで学び、その後、哲学や倫理学を学びました。
オウハディーは少年時代の一時期に、イラン中部のヤズドと南部のシーラーズでも学問の大家から学んでおり、この時期に、神秘主義的な傾向を見せるようになりました。シーラーズとイスファハーンでは、詩の会に入り、すべての参加者を驚かせていました。また、彼はアッバース1世の戦勝記念の祝祭で四行詩を読み、「王に気に入られたもの」と呼ばれました。
オウハディーは1606年、友人らと共にインドにわたり、シーラーズ、ケルマーン、現在のアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのラホールを訪れました。彼がいつどこでなくなったかは分かっていませんが、1630年ごろに記した詩が存在するため、そのころまでは存命だったようです。オウハディーは多くの著作を残しています。
オウハディーの著作にひとつに、8巻におよぶの覚書があり、これにはペルシャ語詩の初期の時代から、オウハディーと同時代の17世紀の詩人にいたるまでの3500人近くのペルシャ語詩人の人物史と詩が記されているとされ、もっとも重要なペルシャ語詩の覚書となっています。この著作の形式は、完全に一様ではなく、その部分ごとにさまざまな形式が見られます。このような散文の記述スタイルは、特に詩人を説明するところでうかがうことができます。
この作品を記す上での、オウハディーのスタイルは、批評的なもので、さまざまな対象について、学者としての見解を提示しています。彼は、贔屓にすることを控え、すべての詩人のさまざまな作品から選び抜いた詩を伝えようと努力していました。
オウハディーはアラビア語の詩を記すのを控えようとしましたが、序文で、可能であれば、アラビア語の詩に関する覚書を書くつもりだとしています。彼はまた、神秘主義詩について触れた選集を記そうと努力しました。
イランの名声、世界的な栄誉はIRIB国際放送ラジオ日本語よりお届けしています。今夜の番組では、16世紀から17世紀のイランの著述家、オウハディー・バルヤーニーについてお話しています。
この貴重なオウハディーの8巻本は、文学的な利益のほか、詩人について翻訳し、記す上でも価値があります。この本の内容を調べると、文学者の実態や生涯のあり方、サファヴィー朝時代のイランやインドの社会が描かれています。
オウハディーのこの作品は、明確な形でサファヴィー朝当時の文芸界を読者に示している、最も重要な作品のひとつです。それ以外にも、オウハディーはイスファハーンの詩人や要人について語っていますが、その記述はさほど多くありません。
多くの研究者によれば、この時代の文学や社会の状況は、この価値ある著作を調べなければ、不完全なものとなるとしています。この本には、さまざまな歴史的な事柄が記されています。たとえば、サファヴィー朝の王であるアッバース1世と、宗教団体のヌクタウィーヤ教団との戦いについて触れており、アッバース1世による大量殺人にも触れています。
イスファハーン大学のシャフィーイユーン教授は、次のように考えています。
「イスファハーンは、イラン北東部のホラーサーンやイラクよりも遅れて、詩において権威ある地となっており、サファヴィー朝時代や、その1世紀後においても、ペルシャ語詩の中心地であり、多くの文学的な動きが見られた。」
シャフィーイユーン教授はまた、次のように語っています。
「この詩人の文学的な信用度とは別に、モンゴル時代以前に関する推測の中で、あえて、どの時代においても、このような詩が一般の人々の生活に入り込んだことはないと言うことができる。幸いにも、いずれにせよ、これに関して、文学的な覚書や歴史史料など、多くの資料が利用できる。はじめに、文学的スタイルの点について、記した文学的な覚書は、オウハディーの作品だ。オウハディーはその記述から、一部の詩人は二流だとしていたが、三流とされる詩人は、オウハディー以前の時代には見られなかった」
オウハディーの詩人に関する覚書は、分量と詳細さという点から、その執筆期間の点からも、非常に類まれなものであり、おそらく現在も、それは、ペルシャ語の包括的な2,3の覚書のひとつとされています。この覚書はまた、記された時期からも、注目に値します。
このオウハディーの覚書の執筆に関与し、インド・ムガル朝の王ジャハーンギールの宮廷詩人について記したヘラヴィーという人物は、オウハディーの覚書は良書かつ重要な著作だが、これによって名声を得たわけではなかったと述べています。
しかし、ヘラヴィーは1616年ごろ、つまり、この覚書が完成した年に亡くなっており、彼のこの本に関する見解は、この本が出される前のものです。明らかに、これほど広く扱った著作は、完全に執筆、編集されるまで、実質的な信用性を得ることはできません。しかし、イランの文学について研究を行っている中東学者やイラン学者は、ある時期まで、この本の存在は知られておらず、おそらく、その理由は、手稿の本数がわずかなことと、この本が長編だったため写本が難しかったことにあるとしています。
この覚書は、オウハディーの後の時代にも、昔の著述家や現代の研究者によって繰り返し使われました。この本は、ダーゲスターニーという人物により、初めて使用され、扱われている詩人が多いことから、詩人に関する多くの情報を発掘し、著述に利用されました。
その後、多くの本の著述に利用されてきました。(省略)現代では、ゴルチーン・マアーニー、ザビーオッラーサファーといった研究者が、大変広範な形でこの覚書を利用しています。
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