6月 06, 2016 20:16 Asia/Tokyo
  • パルティア王国時代のイラン人の服装と芸術(2)

紀元前250年から224年ごろまでのパルティア王国の時代、イランに広まっていた服装は、袖のある上着とズボンでした。

このような服装は、現在の服装の起源と見なされ、政治的、人種的な境界を越えて、インド北部からシリアにまで広がっていました。今夜の番組でも、パルティア王国時代のイラン人の服装についてお話しましょう。

 

パルティア人の服装に関する研究から、彼らの衣服や装飾、服の着方に多様性が見られることが分かります。この時代から残る作品の重要な点のひとつは、その服装に見られる建築芸術の象徴の影響です。これらの細かい部分やデザインには、独特のパターンで繰り返される細かい模様の装飾があります。また、一部のデザインは、円やひし形が連続し、鎖のように連なっています。また、パルティア人の芸術家たちは、イラン人であることや民族的な特徴を重視し、全身を示すことで、服装の詳細を見る者に伝えようとしました。

 

当時から残っているものへの研究から、パルティア人は、華やかな服を好んでいたと考えることができます。とはいえ彼らは、馬に乗る騎手が特別な地位を有するような生活スタイルを取り入れていたようです。オタル王の大理石の像は、およそ20メートルの高さがあり、こうした考え方を示すものとなっています。顔は正面を向いており、右手は敬意を表して高く掲げられています。

 

オタル王は、細い口ひげとあごひげをたたえ、細い襟のある上着はひざまでかかり、華やかな装飾が施されています。細かいひだがあり、横幅が手首の部分まであるため、長い袖はゆったりとしていて、模様はありません。ベルトには剣がつるされています。オタル王の帽子は、その先祖たちと同じように円錐形であり、小さな点の列が施されています。この帽子は、オタル王の髪の毛を覆っていますが、まっすぐで普通の長さの髪を想像させます。袖のない長いマントが身体を守っており、その華やかさを増しています。

 

パルティア人の軍服に関しては、数多くの資料や挿絵が残っています。その理由は簡単です。パルティア人にとって、軍隊に属することは大きな利点と見なされ、その人の生活、仕事、雇用を完成させるものとなっていました。軍隊に属せば、敵の攻撃に対して自分たちの領土を守らなければなりませんでした。このような戦いが絶えなかったため、この時代の出来事を記す人々は、パルティア人社会の軍人の姿を、岩に彫ったり、その彫像を作ったりしていたのです。

 

1世紀から2世紀のギリシャの随筆家プルタルコスは、「イラン人とギリシャ人」という著書の中で、次のように記しています。「パルティア人は、鉄でできたよろいやかぶとを被り、光りを放っている。彼らの馬は銅や鉄で飾られている」

 

メディア人やペルシャ人は、多くの武器のコレクションを持っていました。一方で、パルティア人の戦士たちは、類まれなる武器である弓を巧みに使いこなし、その恩恵によって、壮大な宮殿を建てました。この武器により、彼らは敵たち、特にローマの戦士たちと戦うことができました。紀元42年から46年の間に鋳造された硬貨には、当時の弓の特徴が描かれています。その弓は、やわらかい木や金属を削ったもので、動物の皮や毛、もしくは腸線が張られ、長袖のシャツとひだのあるズボンをはいたパルティア人の男性の手に握られています。

 

この戦士たちは、遠い昔の時代の帽子に非常によく似た帽子を被っていました。このことから、彼らは過去の人々の情報を利用し、それに優美さを加え、新たなニーズに合致させていたと考えることができます。パルティア王国時代の絵画や資料から、この帽子は多くが円錐形で、その下にはテープのようなものがまいてあったことが分かります。この帽子は、下にひだがある吹き返しがついていて、それが肩に垂れていて、耳を覆っていました。

 

イラン西部イーラーム州のシャーミーで、高さ2メートルの大きなブロンズ像が発見されました。この銅像は現在、テヘランにあるイラン考古学博物館に保管されています。この銅像は、軍の司令官であったパルティア王国の王子の姿を形作ったものです。スレナ、あるいはスレンと呼ばれるパルティア王国時代のイラン人中将は、若くして亡くなったにも拘わらず、古代イラン人の間ではよく知られる人物でした。プルタルコスによれば、スレナは、当時、イランで最も勇敢で能力のある人物で、最も背が高く、容姿が端麗であったとしています。

 

このイラン軍の中将は、世界において、パルティア式の戦い方を編み出した人物だとされています。彼の軍隊には、馬に乗った兵士、弓を放つ兵士、やりを放つ兵士、剣を使う兵士、そして水や兵器、食糧を運ぶラクダを連れた歩兵がいました。歴史的な言い伝えによれば、ローマとの戦争が始まる前、スレナはローマの政治家で軍人であったクラッススに書簡を送りました。このクラッススは、それにこのように応えました。「あなたへの返事はイランの都で与える」 スレナも、、これに対してこう返答しました。「私の手のひらに髪の毛を見ることができれば、イランの都も見れるだろう」 彼は、ローマとの最初の戦争でイランの軍隊を指揮し、そのときまで敗北を知らなかったローマ軍に、初めて大勝利を収めました。

 

このイラン人の兵士の像では、額に紐がしっかりと巻いてあり、膨らませた髪の毛が後ろにまとめられています。また、パルティア人の特徴であった口ひげと短いあごひげが見られます。また、大きく開いた三角形の襟のついたジャケットを着て、首飾りをつけています。ジャケットは右前合わせになっており、非常にやわらかい皮でできた幅の広い紐が、フリルのついた服の端のすべてにつけられています。袖は長く、たくさんのフリルがあります。この像から、パルティア人が、軍服においてさえも、美しさを好んでいたことが伺えます。

 

パルティア王国時代の壁画の成長は、建築に影響を与えました。この時代から残っている壁画は、パルティア人の風俗慣習や文化の興味深い点を示しています。その文化から、宗教儀式の際の服装が分かります。コノンと呼ばれる生贄を捧げる儀式といった宗教画は、当時の芸術作品の一例となっています。

 

この絵画には3人の人物が描かれていますが、互いに関連性はありません。彼らはそれぞれが異なる状態にあり、正面から見た姿が描かれています。右足は地面についていますが、左足は斜めにねじっています。服の色はそれぞれの役割を示しています。赤い服を着た男性は召使で、宗教的な人物は白い服を着ています。

他の2人よりも年上の真ん中の人物は、袖の着いたシャツを着て、細いベルトを締めています。頭には円錐形の冠を載せ、説教壇の前で祈りを捧げています。また他の2人よりも若く見える人物も、ベルト以外は同じ格好をしており、祈祷の儀式に参加しています。彼らは2人ともはだしで、3人目は彼らに仕える人物であるようです。この人物は、ターバンのようなものを頭に巻き、シャツを着て、ひものついた靴を履いています。生贄の儀式であるこの壁画の内容は、この儀式に参加する人々の服装のシンプルさを物語っています。

 

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