視点
「反米」の理由を説いたイラン最高指導者
1979年11月4日にイランで起きたアメリカ大使館占拠事件から44年になるのを前に、イラン・イスラム革命最高指導者のハーメネイー師は1日、数千人のイラン人学生や児童生徒らと面会しました。
イランでは毎年11月4日(イラン歴アーバーン月13日)は、「児童生徒の日」および「世界的な覇権主義者に対抗する国民記念日」とされています。それは、この日が米大使館占拠事件以外にも、イランの現代史にとって重要な出来事が相次いだ日だからです。
1964年のこの日には、その後イスラム革命を指揮することになるイマーム・ホメイニー師が当時の王政によりトルコへ国外追放されました。イスラム革命運動が頂点に達していた1978年の同日には、児童生徒らがテヘラン大学の構内で抗議活動をしていたところ、王政側の治安部隊に銃撃され、虐殺されるという事件が起きました。そして1979年の米大使館占拠事件です。これら3つの出来事は、いずれもイスラム革命が勝利する上で重要な役割を果たし、世界の覇権主義勢力およびその手先に対抗するという共通の性質を有しています。そうしたことから、アーバーン月13日は「児童生徒の日」および「世界的な覇権主義者に対抗する国民記念日」と名付けられたのです。
今年もこの記念日を前にした1日、イラン各地から集まった児童生徒や大学生らが、ハーメネイー師と面会しました。
ハーメネイー師はこの日の演説で、アメリカがイラン国民に対して敵対意識を持つに至った経緯について解説し、「アメリカやその主張を鵜呑みにして繰り返す勢力は、アメリカがイランに対して敵意を持つようになったのは大使館占拠事件がきっかけだと主張するが、こうした主張は全くのでたらめだ。歴史を振り返れば、アメリカのイランに対する敵意は、大使館占拠事件の26年前、当時のモサッデク政権をクーデターで転覆させた時から始まっていたことは明らかだ」と指摘しました。
そして、米大使館占拠事件についても、当時大使館内にあった書類を引き合いに「これらの書類からは、米大使館がイスラム革命が勝利した当初から、つまり占拠事件の10カ月前から、陰謀やスパイ活動、クーデターや内戦の計画立案、反革命のメディア工作などの中枢であったことが分かる。したがって、アメリカのイランに対する敵意は、大使館占拠事件ではなく別の原因が契機だったということだ」と語りました。
イランの現代史は、アメリカによる陰謀や敵対政策、介入などで溢れています。ハーメネイー師が言及した1953年のモサッデク政権転覆のクーデターや、王政への支援、秘密警察サヴァクの創設、治外法権法の強要などは、1979年の革命前にイランに対して科されたアメリカによる敵対政策の実例です。これらはアメリカの政治的、経済的、軍事的覇権を目的に科されました。
アメリカはその後のイスラム革命にも反対し、テヘランにあった大使館を拠点に革命体制を打倒するための陰謀を練るようになります。そして、当時イラクの大統領だったサッダームとそのバアス党政権をそそのかし、8年間におよぶイラン・イラク戦争を始めさせます。この戦争末期の1988年7月には、ペルシア湾に展開していた米軍艦船が上空を通過していたイラン航空655便を撃墜し、乗員・乗客290名を死亡させる事件が起きました。アメリカは現在に至るまでこの事件について謝罪しておらず、それどころか航空機を撃墜した艦船の船長を表彰しています。
アメリカのイランに対する敵対政策は、その後も違法な制裁という形で今日まで続いています。しかし、知っておかねばならないのは、歴史史料をひもとけば、イランは1979年のイスラム革命前からそうした敵対政策の標的にされていたことがわかるということです。
先に挙げたイマーム・ホメイニー師の国外追放は、師が治外法権法およびアメリカの利権保護に反対したことが原因でした。また、テヘラン大学での児童虐殺事件は、この児童らが王政に反対するデモを行っていたことが理由でした。米大使館占拠事件は、ホメイニー師が「第2の革命」と呼んだように、世界の覇権主義勢力に対する革命運動をイラン国民が維持・継続する姿勢を示したものでした。
ハーメネイー師は1日の演説の最後に、「『アメリカに死を』は単なるスローガンではなく、ひとつの姿勢である。それは、70年におよぶアメリカのイランに対する陰謀や敵意により沸き起こったものだ」と述べました。