ヒトラーによる仏への犯罪と同等の、仏によるアルジェリアへの犯罪
フランスは、他の連合・同盟国とともにヨーロッパを破壊していたナチス・ドイツからの解放を祝していたのとまさに同時期、第2次世界大戦での勝利を誇った自国の植民地主義軍によって、北アフリカ・アルジェリアにて20世紀で最も凶悪かつ暗澹たる犯罪の一つを引き起こしていました。
フランスは、第2次世界大戦中に自らがヨーロッパで直面したのと同様の犯罪を、アルジェリアにおいて行いました。この恐るべき凶悪犯罪は、アルジェリアに100万人の殉教者という結果をもたらしました。ここから、ナチス・ドイツ指導者ヒトラーの死をもって残忍な犯罪の時代が終ったわけではなかったと断言できます。なぜなら、フランスはアルジェリアで行った犯罪とそこで見せた自らの残忍さによって、ヒトラーの道を継承できることを証明したからです。
欧州の一国であるフランスは、自国が人権発祥の地であることを常に誇りとしていますが、今回の記事では、「黒い火曜日」として知られる1945年5月8日に起きたフランスによる犯罪を取り上げていきます。この日はすべてのアルジェリア人にとって痛ましい日とされていますが、同時に、アルジェリア国民の間で外国の植民地主義を排除し独立に向けた戦場に足を踏み入れようという非常に強い動機が沸き起こるきっかけとなった日でもありました。
パールストゥデイは、イスラム圏の文化・社会への理解を深めることを目的としたイランのウェブサイト「shouba.ir」の掲載内容を基に、この出来事を説明していきます;
独立要求のスローガン
1945年5月8日、フランスは連合国や他の同盟国とともに、第2次世界大戦におけるナチス・ドイツに対しての勝利で祝杯をあげていました。アルジェリアで一連のデモが始まったのはまさにこのような時でした。デモ参加者らはフランス国旗を掲げ、同国とその同盟国の勝利を支持するスローガンを唱えた後、「独立国家アルジェリア万歳」と叫んで、初めてフランス国旗とともにアジェリア国旗を掲げました。当時アルジェリアを植民地支配していたフランスの現地指導者らは慌てふためき、即座にアルジェリアの国旗を降ろすよう命じました。
しかし、デモに参加者していたアルジェリア人青年ボージド・サールは、自国の国旗を降ろそうとはしませんでした。他の若者たちも同様に、植民地主義者の強制や迫害を頑なに拒否しました。そのため、デモ参加者とフランス軍との間で激しい衝突が起きることとなりました。フランス軍はボージド・サールに発砲し、彼を殺害しました。この殺害の後、デモ参加者の間にある種の恐怖感が広がり。これがアルジェリアにおけるフランスの大罪の口火を切ることとなりました。
ボージド・サールは、1945年5月8日にフランス軍によって射殺された最初の若者であったことから、アルジェリア人にとってひとつのシンボルとなっています。彼は1919年にアルジェリア北部セティフ市アルザイリ村で生まれ、同地でコーラン学を学びましたが、わずか15歳で父親を亡くしたため、やむをえず家族とともにそこから転居しました。彼は自分自身と家族を養うためにレストランで働き始め、後にアルジェリアのイスラム・スカウト協会の一員となりました。
フランス植民地主義者に対するアルジェリア国民の一連の大規模デモは、徐々にアルジェリアの都市やその郊外に広がっていきました。これらの地域には北部のゲルバやアンナバ、ヘッラタを挙げることができます。ド・ゴール将軍傘下の仏政府はこの間、アルジェリアの抗議活動参加者を残虐に弾圧・鎮圧する以外には事実上何もできず、そのために、アルジェリアの多くの地域で「戒厳令」を発令するとともに、外出禁止令を厳格に施行することとなりました。
フランスは同時に、民衆による抗議活動の範囲拡大を阻止しようとさまざまな措置を講じました。アルジェリアの国民運動の指導者ら数名は植民地主義者により逮捕され、また一方では、イスラム・スカウト協会の一部メンバーが植民地主義者によって処刑されました。ド・ゴール将軍は、民衆の抗議活動への参加の有無が疑われる民間人さえも処刑しました。
フランスはまた、アルジェリアの村落の多くが独立運動家の隠れ蓑になっていると考え、そうした村落を標的に空爆し徹底的に破壊しました。複数の報告からは、フランスがこれらの村で女性、子ども、高齢者に対して多数の犯罪をはたらいたことも明らかになっています。アルジェリア国民に対するフランスの一連の犯罪はなおも終わらず、植民地主義者らはアルジェリアで重大な人権侵害を行い続けました。フランス占領者の悪事の一例には、あらゆる地区の人々を一か所に集め、ガソリンをかけて放火した事例も挙げられます。
さらにフランスは、飛行機やヘリコプターから高齢者を投げ落とすという行動にも出ました。犯罪者らは殺害された人々の遺体にさえも容赦せず、他のアルジェリア国民への教訓・見せしめとしてそれらを歩道脇に放置しました。さらに指摘すべき点は、妊娠中のアルジェリア人女性すらもフランス植民地主義者兵士の犯罪から逃れられなかったことです。
フランスは多数の犯罪を引き起こしていく中で、わずか15日間で44の村落を完全に破壊しました。彼らは大規模な空爆を行い、数百人もの女性や子供、高齢者らを殺めました。また、彼らは同じ方法で4万5000人のアルジェリア国民を虐殺しました。一部の報告では、この植民地主義的犯罪による犠牲者数は7万人とも推定されています。この間にはまた、5000人以上のアルジェリア国民が植民地主義者によって逮捕・拘束されました。前述の恐ろしい犯罪が行われた後も、逮捕・拘束の嵐はさらに数カ月間続きました。その後、植民地主義者の傘下にある裁判所は 1945年10月に数千件の死刑判決を下しています。
自由と解放の始まり
アルジェリアにおけるフランスの犯罪と虐殺の規模は予想よりはるかに大きいものだったという事実にもかかわらず、この犯罪はアルジェリア人らに前向きな行動に向かわせる大きな動機づけとなりました。したがって、彼らは独立達成するために闘争の現場に出て戦うことを決断したのです。アルジェリア市民らは決意を固め、フランス植民地主義からの解放の道において数十万人もの殉教者を出す覚悟ができていました。これはまさに、現実の舞台で起こったことだったのです。
多くの歴史家は、1945年5月8日の犯罪と虐殺が実際にはフランスからのアルジェリアの独立の出発点だった、と考えています。この大量殺害の結果、アルジェリアでは新しい世代、即ち「自由をもたらすフランス文明」という神話を否定する世代が誕生しました。これについて、リビア出身のイスラム学者・政治家のアリー・アル・サッラービー氏は「アルジェリア国民の闘争」というタイトルの著書の中で次のように語っています;
「フランス植民地主義者の恐ろしい犯罪が生んだプラスの結果の一つは、この犯罪の後にアルジェリア民衆らが植民地主義からの解放という壮大な目標を実現できるのは武力しかない、と信じるようになったことである。このことから、フランス占領者に対する武力闘争への勧誘が広まった。第2次世界大戦後、アルジェリアの青年らはフランスに対する武力闘争を大々的に歓迎したのである」
サッラービー氏はさらに、次のように続けました;
「1945年5月に植民地主義者たちが引き起こした犯罪により、アルジェリア人は自由と独立が他者から与えられる贈り物ではなく、自ら闘争し戦って手に入れるべきものだという結論に達した。このため、この出来事はアルジェリア革命の原動力となったと言える。1950年代半ばから始まったこの革命は1962年、植民地主義からのアルジェリアの解放という目標を遂げることができた」
1945年5月8日の犯罪は、自由と独立への道の出発点であっただけでなく、それに対する追憶によって、フランスや他の同盟国が踏襲した「ソフト面での植民地主義」の管理者らの工作に対して独立を求めるアルジェリア市民の道の継続・継承の強調にもなっているのです。
出典;タマーム・アボルヘイル著、ラーミーン・ホセインアーバーディヤーン訳「アルジェリアにおける仏の犯罪への知見;アルジェリア人の記憶から消え去ることのない残虐行為」2022(shouba.ir掲載)