市民が敵になったとき、米軍が警察と化せばどうなるか?
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カリフォルニア州ウェストウッドに配備された米海兵隊
米軍が今や戦闘部隊から国内統制の手段へと変貌を遂げており、警察と軍隊の役割が融合していくこの成り行きにより安全保障と抑圧の境界線が曖昧になりつつあります。
英ロンドン拠点の汎アラブ報道機関・ニューアラブのウェブサイトは、エジプト人ジャーナリスト、ホッサム・エル・ハマラウィ(Hossam el-Hamalawy)氏による記事において、深遠で歴史的な観点から「米軍が純粋に軍事力から警察力および社会統制力へと徐々に変貌を遂げてきたことは、米国の権力構造における重要かつ稀有な変化現象の一つである。しかし、こうした中でここ数十年、世間の注目は『警察の軍事化』に集中している」と報じています。
執筆者はさらに「『米軍の警察活動』、より正確に言えば、軍を国内統制の直接的な機関へと転換させるプロセスは、その不可視的な成り行きために注目されていなかった」と述べています。
ハマラウィ氏はさらに「米国政府が国内統制のために軍隊を使用するのはごく最近の現象ではない。トランプ政権時代に抗議活動の鎮圧や移民法執行の支援を目的に州兵と海兵隊が派遣されたことは、この出来事が数十年にわたる軍の役割の変化に根ざしていることを想起させるものである。しかも、その変化は第2次世界大戦の終結とともに始まり、戦争と脅威の性質の変化とともに続いてきた」とコメントしています。
冷戦時代において、ヨーロッパの植民地主義者の衰退および、いわゆるグローバルサウスと呼ばれる地域での民族解放運動の台頭により、アメリカは新たな危機に直面しました。つまり旧植民地への直接的かつ恒久的な軍事介入がもはや不可能である一方、アメリカは左翼および反西洋的イデオロギーの蔓延を懸念していたのです。こうした状況下で「対反乱作戦」という方針が生まれました。この方針は、植民地における反乱の鎮圧だけでなく、先手を取って住民を統制し、都市社会を管理することを目的としていました。
エル・ハマラウィ氏はスチュアート・シュレーダー(Stuart Schrader)などの歴史家の研究を論拠に、アメリカの権力構造において、反乱と「内的な脅威」に対抗するアプローチには2つあったと説明しています。1つはゲリラ戦と軍事介入に依拠するもので、もう1つは都市統制、警察の拡張、そして不満の封じ込めを目的とした社会福祉事業に依拠するものです。しかし、時間の経過とともに後者が前者を凌駕し、米軍は徐々に都市における反乱鎮圧部隊、つまり戦闘ではなく「秩序」を維持する治安部隊として再定義されるようになりました。
もっとも、こうした変革はアメリカ合衆国だけに限られませんでした。北アフリカ・アルジェリアにおけるフランス植民地の経験および、現在のマレーシアの前身・マラヤにおけるイギリスの経験も同様の結果につながっています。反乱に対する勝利は軍事力ではなく、監視、警察活動、そして人口管理のネットワークによって可能となるのです。フランスの理論家ダヴィッド・ガロラ(David Galula)の言葉で言うなら、真の反乱鎮圧とは一種の「警察活動」であり、この言葉は第2次世界大戦後の安全保障方針のモットーとなっていました。
このようにして、軍と警察の境界線はますます曖昧化してきました。かつては海外での戦闘を想定して編成されていた軍隊が、今では警察の任務も担うようになってきており、その任務内容は情報収集や国内の敵の特定に始まり、デモの鎮圧、国境警備、さらには移民の監視までと多岐にわたります。その結果、警察は軍事技術や戦術を吸収し、より戦闘的かつ暴力的になっているのです。
エル=ハマラウィ氏はこの現象を「弾圧の弁証法」と呼んでいます。これは、危機や社会不安(共産主義からテロリズム、移民問題まで)の時代に加速する、警察の軍事化と軍による治安維持という双方向の関係を指します。国家が漠然とした不明確な脅威を「敵」として提示する時、社会は戦争の論理と自由の制限を受け入れます。このような状況においては「付随的な被害」や「国家の犠牲」といった概念により、民間人の殺害、抗議活動の鎮圧、そして戦時経済の強化が正当化されることになります。
結論として、エル=ハマラウィ氏は「帝国主義国家としてのアメリカは、この抑圧と統制のモデルを国内に適用するのみならず、軍事協力や訓練プログラムを通じて世界中に輸出している」と警告しています。2003年以降のイラク・バグダッドから米カリフォルニア州ロサンゼルスの街頭まで、さらにはアフガニスタンから米フロリダまで、米軍はもはや単なる防衛や戦争ではなく、「人民の統治」を任務とする世界の警察官として台頭しつつあります。
この記事の執筆者によれば、こうしたプロセスは民主主義と市民の安全の漸進的な死を伴うとされています。その理由としては、軍隊が警察に、また警察が軍隊と化せば「市民」と「敵」の境界が消え去り、まさにこの時点で自由社会が「秩序維持」のための恒久的な拠点と化してしまうことが指摘されています。