3月 10, 2024 16:39 Asia/Tokyo
  • ヘンマト司令官
    ヘンマト司令官

毎年3月7日は、イラク旧サッダーム政権と対峙し「聖なる防衛」と呼ばれた対イラク戦争の時代、最も国民の支持するイラン軍司令官の一人となったモハンマド・エブラーヒーム・ヘンマト氏が殉教した日にあたります。ここでは、僅か28歳で殉教したこの人望厚いイラン軍人の殉教記念日に因み、その生涯と軍内管理の手法の一部にスポットを当ててみたいと思います。

ヘンマト司令官の生涯:

 

1-家族を支えた少年時代

ヘンマト司令官は1955年4月2日、イラン中部イスファハーン州シャフレザーに住む、貧しくも信仰心の厚い家庭に生を受けました。彼は勉学以外の時間、特に夏休みの間は、多くの時間を労働に充てて、そこで得た収入で家族を大きく助けていました。

 

青年時代のヘンマト司令官

 

2- 学生から戦士へ

ヘンマト司令官は優秀な成績で高校を卒業した後、1973年にイスファハーンにある教師養成学校に入学しました。その後に軍に入隊し、除隊した後は、生まれ故郷に戻ってしばらくの間、シャフレザーとその近隣の村の中学校で歴史の教師として勤務しました。この間、彼は米国の支援を受けた旧パフラヴィー王朝政権に反対する活動も始めました。そして、パフラヴィー政権に対する民衆の闘争の拡大とともに、ヘンマト司令官はシャフレザーの若手戦士らの先導役を担うこととなりました。

 

学生・闘士時代のヘンマト司令官

 

3- パフラヴィー王朝の暗殺対象リストに

ヘンマト司令官は、旧王制に反対する民衆デモに積極的に参加しました。彼は、自ら行った反政府活動により、王政側のSAVAK治安維持情報機関から何度も警告を受けてましがた、イスファハーンの軍事総督が彼の暗殺と処刑を命じるまで、服装や人相を変えてさまざまな都市で反王政闘争を続け、結果的にイスラム革命は勝利を収めました。

 

旧王制のパフラヴィー王朝の暗殺対象となった頃のヘンマト司令官

 

4-革命後のシャフレザー・イスラム革命委員会時代

ヘンマト司令官は1979年のイスラム革命勝利後、シャフレザーにおいて、パフラヴィー王朝崩壊後の情勢収束を目的とした地域の治安機関に当たるイスラム革命委員会の設置に、重要な役割を果たしました。そしてしばらくしてから、シャフレザー・イスラム革命防衛隊の広報責任者に就任しました。

 

兵士らに語りかけるヘンマト司令官

 

5-軍司令官としての活躍

イラン・イラク戦争の開始とともに、ヘンマト司令官と、当時革命防衛隊司令官だったアフマド・モタヴァッセリヤーン氏は、イスラム革命防衛隊司令官だったモフセン・レザーイー氏の命により、南部戦線に派遣されるとともに、「預言者ムハンマド旅団」の結成を命じられました。ヘンマト司令官はその創造性や勇敢さ、自己献身的な精神により、イラクの旧バース党政権が対イランに押し付けた戦争で、複数の作戦を指揮しました。中でも、第4次ヴァル・ファジュル作戦において彼の指揮する第27師団が見せた作戦速度は、目を見張るものでした。

 

故モタヴァッセリヤーン司令官とともに

 

6-シオニスト政権イスラエルの悪行への対峙

1982年にレバノン南部で戦争が始まると、ヘンマト司令官はレバノンを支援するために同国を訪れ、複数の活動の組織に携わった後、イランに帰国しました。

兵士らと語らうヘンマト司令官

 

若き日の故ソレイマーニー司令官とヘンマト司令官

 

7-非業の殉教

ヘンマト司令官は、イラン・イラク戦争における湿地の戦いとなったヘイバル作戦で、サッダーム軍との交戦中に前線の状況を確認しようと前に出た際、砲弾を受けて頭部が胴体から切断され、殉教しました。

 

ヘンマト司令官と革命防衛隊司令官たち

 

ヘンマト司令官の軍内管理手法の特色:

 

1-部隊員選出における精通

ヘンマト司令官の特徴の1つとして特に知られているのは、人選および、隊員選出の確かさです。彼は、軍隊のさまざまな責任を担うのに最もふさわしい人材を、非常に緻密かつ正確に選びました。したがって、彼が選出した人材はいずれも、戦争で大きく活躍することになりました。

2- 謙虚な姿勢

ヘンマト司令官について伝えられているのは、彼が決して自分が他人より優れているとは考えていなかったことです。彼は何度も、戦争に志願した民兵から成るバスィージ軍より自分がはるかに低い位置にいるとしながら、「私の位置はどこか、対して、この献身的な神の軍勢(=バスィージ軍)の位置はどれだけのものか」と語っていました。

3-「司令官は部隊を成長させるべき」

ヘンマト司令官は、軍隊には成長の道筋が必要であり、司令官は指揮下の軍隊のさらなるレベル向上に努めるべきであると強調していました。また彼は、イランの将来を見据えた軍隊の訓練に関心を寄せていた人物としても知られていました。

4- 批判も受け入れる精神

指導者としてのヘンマト司令官の特徴の一つは、批判を受け入れる精神を持っていたことでした。彼は、自分の仕事ぶりについて誰かから意見や批評を聞いた場合、注意深く耳を傾け、「私は経験豊かな指揮官だ」などと言うことは決してありませんでした。また、戦争や作戦を支援する能力、アイデア、計画、計画を持った人物が最前線にいるとわかるや否や、直ちにその人物を見つけ出して連絡をつけるよう努めていました。

モフセン・レザーイー元イスラム革命防衛隊司令官は、ヘンマト司令官に関連して次のように語っています:

 「我々には四つの部隊があったが、彼らがどの場所に行こうとも、その戦線に対抗できるだけの相手はいなかった。特に、ヘンマト司令官と第27師団『預言者ムハンマド』、ホセイン・ハッラーズィー司令官と第14師団『イマーム・ホセイン』、メフディー・バーケリー司令官と第31師団『アーシュラ―』、アフマド・カーゼミー司令官と第8師団『ナジャフ』は、どの場所でも例外なく成功を収めていた」

 

当時のレザーイー革命防衛隊司令官と計画を話し合うヘンマト司令官

 


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