12月 20, 2017 17:00 Asia/Tokyo
  • ポロ       
    ポロ     

第12回ユネスコ無形文化遺産委員会が12月4日から9日まで、韓国のチェジュ島で開催され、24の条約締結国と、700人近い有識者が出席しました。この委員会で、イランのポロ競技と弦楽器のキャマーンチェが無形文化遺産に認可され、世界遺産に登録されました。

キャマーンチェは、イランを含む地域における最も古く、そして最も広く使われている楽器です。この楽器はイランの古典的な、そして地方の音楽を演奏する際に使用されます。キャマーンチェの多様な、幅広い可能性により、イランの多くの町や村で行われる式典で、利用されてきました。

ポロ  

 

また、ポロも、心身の健全さを伴うスポーツとして、多様な価値を備えています。高貴なスポーツとして、そのアイデンティティや社会的な地位、自然、人間、馬との関係の構築、娯楽であること、昔からの喜びを作り出すスポーツです。また、選手に社会、歴史、家族の一員として帰属意識を生み出し、競技により世代間の関係を構築することも、ポロの価値ある特徴なのです。

ポロの登録案件で強調されたのは、この競技が選手のアイデンティティや歴史と関係のある、文化的な要素であることです。この要素は、広く、イランの建築、文学、語り、ことわざ、細密画、手工芸品にも入っています。

「ドルメ」

 

ユネスコ無形文化遺産委員会では、伝統的な料理である「ドルメ」もアゼルバイジャン共和国によって登録されました。アゼルバイジャン政府は、この料理は自国民のものだと主張していますが、一方で、ドルメはイランの最も古い料理の一つとみなされています。アルメニアやアゼルバイジャンなどの国ができる数百年前から、ドルメはイラン料理として知られています。

「ドルメ」

 

ドルメはさまざまな形を持ち、ブドウの葉やピーマン、ズッキーニ、トマト、キャベツ、なすなどから作られます。そのほか、ドルメの材料は、ひき肉、香草、たまねぎ、米、レンズマメ、香辛料などですが、ブドウの葉はさまざまな形に巻かれています。

キャマーンチェ

 

キャマーンチェについて、歴史の中で初めて触れられたのは、10世紀の大学者ファーラービーの音楽書『音楽大典』の中です。ファーラービーはこの中で、キャマーンチェをイランの楽器としています。キャマーンチェは、サファヴィー朝時代やガージャール朝時代、イラン音楽の基本的な楽器の一つであり、初めてキャマーンチェの音が録音されたのは、20世紀初頭でした。

キャマーンチェの胴体は空洞で、たいてい、桑の木を張り合わせてできており、また、皮が張られています。皮の上にはこまが少し傾いて乗せられ、その上を弦が通っています。

楽器のネックは太く、円筒状の竿で、その上部の左右両側にはペグがついています。全長はおよそ80センチです。

昔のキャマーンチェには、現在のようなチューニングアジャスターはありませんでした。昔の時代、セタールなどのように、弦は直接楽器に結びつけられていたのです。バイオリンがイランに入るようになってから、より正確なチューニングを行うため、チューニングアジャスターが付け加えられたのです。この楽器は、弓を使って弦をこする楽器のひとつです。現在、キャマーンチェには4本の弦がつけられています。

演奏者は座った状態で、キャマーンチェを地面、あるいはいすの座る場所、またはひざの上におき、弓を使ってひきます。演奏を行うときは、軸を中心に楽器を回転させ、これによって弦のタッチをより容易にします。また、左手はネックの面とほぼ垂直になるように置き、指を使って弦を押さえ、右手で持った弓で弦をこすります。

現在、キャマーンチェはイランの音楽グループにおいて、重要な楽器とされています。もしキャマーンチェがなければ、魅力ある作品を提供することが大変に困難となります。その音は、グループ演奏に輝きを与え、単独で、タールやサントゥールといった複数の弦楽器の音に匹敵します。

ケイハーン・キャルホル

 

キャマーンチェの優れた奏者として、ホセイン・ハーン・イスマーイールザーデ、アリー・アスガル・バハーリー、ケイハーン・キャルホルなどがよく知られています。

ポロ

 

ポロはイランの古いスポーツのひとつで、現在、国際的なスポーツとなっています。これは、王族のスポーツとして、王や貴人の間で広まっていたことで知られています。ポロを意味するペルシャ語の「チョガーン」という言葉は、球を打つスティックから来ています。この競技は、はじめ、軍事的なものとされ、イランの騎兵たちは、戦争で馬を扱う能力をこの競技で示しました。現在のポロは、イラン発祥だとされています。

今日、77カ国以上がポロの特別なイベントを催しています。また、1900年から1939年まで、ポロはオリンピック競技でした。

ポロは紀元前7世紀にイランで生まれ、当時アケメネス朝の王族がこれを行っており、ダリウーシュ1世が王朝を立てた後、インドに広まりました。また、紀元3世紀から7世紀のサーサーン朝でも、文化の一部となっていました。

ポロ

 

イスラム以後の9世紀のペルシャ語詩人ルーダキーや、11世紀の抒情詩人フェルドゥースィーも、ポロについて盛んに語っており、また、サアディー、ハーフェズ、ナーセルホスロー、モウラヴィーといった詩人もポロについて触れています。

モンゴル人はイランを侵略した後、イランの文化や芸術、そしてポロを知るようになり、モンゴル人の支配地域の全土でポロが広まりました。また、17世紀のサファヴィー朝のアッバース1世が、ガズヴィーンが首都だったころからポロをたしなんでいたことが史料によって示されています。そして、イラン中部イスファハーンのイマーム広場は、ポロ用のグラウンドとして設置されました。

ヨーロッパ人はサファヴィー朝時代、そしてインド植民地時代にポロを知り、イギリス軍の高官は専門的な形でポロをインド東部コルカタのスポーツクラブで学び、イギリスに持ち込みました。その後、ゴルフやホッケーといったポロと同じようなスティックを使用するスポーツが出現します。イギリスで1860年代に広まった後は、ラテンアメリカに渡り、ここで大いに広まりました。現在、世界で最もポロが盛んに行われているのはラテンアメリカであり、ここには多くの愛好家が存在します。

ポロ

 

ポロは戦略的なスポーツで、乗馬の準備と馬が必要になります。馬は通常、障害物は避けますが、ポロの馬は障害物に向かいます。ポロに慣れた馬は、用意に戦場に出ることができます。ポロは当初、軍事的な側面を持っていたのです。

また、触れておかなければならないのは、アゼルバイジャン・バクーで開催された第8回世界無形文化遺産委員会で、アゼルバイジャン共和国がポロをカラバフの伝統的な乗馬競技として無形文化遺産に登録したことです。アゼルバイジャンが単独でポロを登録したことについて、抗議が起こり、この登録の数ヶ月前にも、イランの文化遺産の担当者はユネスコに書簡を送り、ユネスコに対して、この登録は1カ国のみで行わないよう要請しましたが、ユネスコはこれに回答しませんでした。

2年前、イランは自国のスポーツ青少年省と国際ポロ連盟の協力により、ポロに関する登録案件をユネスコに付託し、それについて検討するよう求めました。最終的に、イランの努力と、その歴史的証拠が確固たるものだったことにより、世界無形文化遺産に登録されました。この登録はまさに、イランの多様で幅広い、豊かな文化と歴史を世界レベルで示すことになりました。

イランのユネスコ無形文化遺産は13件に上り、そのうちノウルーズの祝祭、平たいナンの製造技術、弦楽器のキャマーンチェの3件については、数カ国による共同登録となっています。

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