「ペルシャ湾」の永続性
(last modified Fri, 29 Apr 2022 13:25:00 GMT )
4月 29, 2022 22:25 Asia/Tokyo
  • ペルシャ湾
    ペルシャ湾

4月30日はペルシャ湾の日に当たります。これは、一国の国民の歴史と文明に起源を発するものでもあります。

2005年から、アラブ諸国や一部の国際機関が国際関係の原則に違反し、妨害行為を行い、この妨害に人々が大きな抗議を起こしたことを受けて、4月29日をペルシャ湾の日としました。しかし、実際には、ペルシャ湾の日は、イラン国民の歴史に端を発するものだと主張することができます。

ペルシャ湾はオマーン海に続いている水域であり、イラン高原とアラビア半島の間に位置しています。その面積は23万7473平方キロです。また、ハドソン湾、メキシコ湾についで、3番目に大きな湾とみなされています。

 

ペルシャ湾

 

ペルシャ湾はホルモズ海峡を経てオマーン湾へ、そしてインド洋につづいており、アルヴァンド川のデルタ地帯に、そして、西はチグリス・ユーフラテス川、カールーン川に接しています。

ペルシャ湾に接している国とは、イランのほか、オマーン、イラク、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、バーレーンです。ペルシャ湾の北部沿岸は、政治的にはすべてイランの領土に当たります。ペルシャ湾やその沿岸は石油や天然ガスが豊富に存在するため、この海域は国際的に重要なものとみなされています。

 

地理の名称に関する国連文書61によりますと、ペルシャ湾という言葉は紀元前にさかのぼるとされています。この名称にはすべての言語や、文学において、パールスやイラン、あるいはアジャムという言葉が使われています。紀元前5世紀以前から、この地域の名称はペルシャ湾とされてきました。実際、ギリシャ人やローマ人、そして東ローマ帝国やアッバース朝の人々、イスラムの地理学者は、このペルシャ湾の名称を常に使ってきました。タバリーやヤアグービー、マスウーディーの歴史書にも、まさにこの名称が使用されています。

ポルトガル人やスペイン人が侵入した後も、彼らの文書には、ペルシャ湾の名称が使われ、イギリス人やフランス人の侵略時代にも、ペルシャ湾と呼ばれており、ソ連、アメリカ、イギリスの百科事典にも、国連の文書にも、ペルシャ湾の名称が常に使われてきました。

ペルシャ湾におけるイランの歴史的な主権

 

紀元前のアケメネス朝時代のダーリウーシュ1世の碑文では、ペルシャ湾における水路の存在が伝えられており、そこでも、やはりペルシア湾にパールサという言葉が使われています。

2世紀のギリシャ人の歴史家アリアノスは、著書『アレクサンドロス東征記』の中で、「ペルシコン・カイタス」という言葉を使っており、これはペルシャ湾という言葉に近いと見られています。

また、1世紀の著名な地理学者ストラボンも、著書の中で、ペルシャ湾を指すためにこの言葉を繰り返し使っています。

 

古地図における「ペルシャの海」の表記

 

2世紀の地理学者プトレマイオスは、ペルシャ湾を「ペルシクス・シヌス」としており、これはまさに、ペルシャ湾に当たります。一部のラテン語文献では、シヌス・ペルシクス、または、マーレ・ペルシクムとされており、これもまさにペルシャ湾を意味します。

現在使われている多くの言語で、ペルシャ湾を意味する単語が導入されているという事実は、触れておく必要があります。日本でもペルシャ湾と呼ばれています。

1世紀のローマ時代の歴史家、キンタス・クルシウス・ルフスも、「アクアルム・ペルシコ」という、ペルシャ湾に当たる言葉を使っています。

 

古地図における「ペルシャの海」の表記

 

イスラム時代の歴史資料や地理資料でも、繰り返し、アラビア語でペルシャの海という言葉が使われています。

このため、この湾の歴史的な名称は、さまざまな言語で、ペルシャ湾、あるいはペルシャの海とされてきました。これにより、すべての国際機関では、この湾の正式名称はペルシャ湾とされています。国際水路機関も、常に、ペルシャ湾という名称を使っています。

歴史上のさまざまな時代に残された資料や地図を調べてみると、ペルシャ湾がすべての国民や文化に、ペルシャ湾という名称で認識されていたということが明らかになります。しかし、こうした歴史的な根拠にもかかわらず、1960年代からの汎アラブ主義的な思想の広まりとともに、多くのアラブ人のナショナリストは、無思慮な行動により、ペルシャ湾をアラビア湾という名称に変えようとし、このことをアラブ連盟を通じて正式に通達しました。こうした中、イランの地理的な権利を明らかに侵害するこの行動は、どの国際機関によっても正式に認められていません。

 

「ペルシャ湾」の永続性

 

国連などの国際機関や専門的な組織は、ペルシャ湾の名称を基本的な、信用性ある名称だとしており、ペルシャ湾の名称変更をまったく受け入れていません。国連事務局とその専門機関のある文書では、少なくとも8回にわたり、ペルシャ湾の名前が使用されています。

国連事務局は1971年3月5日付けの文書において、地図や地理書の中で、長年にわたりペルシャ湾の名称が使用されてきたことを認めています。また、1984年8月10日付けの文書と、1990年1月10日の覚書でも、正式にペルシャ湾だと宣言しています。国連は地理的名称の調整に関して開催される定例会合で、この海域がペルシャ湾であることを強調し、それを認めています。

 

国連文書におけるペルシャ湾の表記

 

国連は数回にわたる声明や決議の中で、正式な地図を発表し、ペルシャ湾の名称が公式のものであることを強調するだけでなく、国際的な代表団に対して、正式な文書、特に国連文書では、完全にペルシャ湾の名称を使用するよう要請しています。

一方で、一部のアラブ諸国によるペルシャ湾の名称改変の歴史的な起源とは、どのようなものなのでしょうか。

有識者によれば、このアラブ諸国による間違った呼称は、ペルシャ湾岸諸国がイギリスの委任統治下にあった時代に、イギリスの政府代表をつとめていたロデリック・オーウェンという人物よってはじめて使われたということです。1958年に出版された彼の著作では、次のように記されています。

「私はどの本や地図でも、ペルシャ湾という名前以外目にしたことはない、しかし、数年間、バーレーンにあたるペルシャ湾岸に住むようになってから、ここはアラブ人が住んでいる場所だと気づいた。つまり、アラブ人の海域と呼ぶのが礼儀だ」

アラブ人の組織によるこのような改変を受けて、いくつかの欧米の機関も、あらかじめ計画されたシナリオにより、歴史的な名称の改変をより広い形で続けています。2004年には、アメリカのナショナルジオグラフィック協会が、地図の中でペルシャ湾の名称の脇に誤った名称を挿入しました。

また、2006年には、フランスのルーブル美術館の責任者が、ペルシャ湾の誤った名前を使いました。ナショナルジオグラフィック協会とルーブル美術館はイラン人の愛国者の強い抗議を受け、これによりすぐに謝罪し、修正を加えました。

 

ペルシャ湾を守るイラン人

 

実際、イラン国民は、イランの土地を力強く守ってきた人々であり、権利の回復、自国の文明の歴史と文化的遺産を支えることにつとめ、すべての違反者に謝罪させてきました。イラン国民は国際機関に書簡を送り、ペルシャ湾の呼称への違反者に反対する多くの署名をおこなうことで、イランの敵の悪しき計画を失敗に終わらせてきたのです。

 

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