アーシュラーの英雄伝
イスラムの教育制度では、人々の人格形成に影響を及ぼす要素のひとつとして、宗教の偉人たちを模範にすることが挙げられています。
人類社会の歴史が示しているように、社会に模範が存在しなければ、人々は表面的な生活においても、また信仰や理性の面でも迷います。社会が生き生きとした世代を教育しようとするのであれば、永遠の模範が必要です。
イマームホサインは、アーシュラーの英雄伝によって、生き方の模範を示しました。この模範は美しさに溢れており、常に、人類にとっての教訓となっています。この大きな出来事には、たくさんの教訓があります。イマームホサインのアーシュラーの英雄伝は、高貴な人間を具現するものです。
カルバラでのイマームホサインの蜂起を、何よりも美しく見せているのは、その教育的、道徳的な側面であり、人間に驚くべき影響を与え、多くの人を変えてきました。アーシュラーの美しい場面の一つは、献身です。敵に対してすら愛情を示す勇気です。イマームホサインは、のどの渇きに苦しむ敵やその馬にも水を与えました。イマームホサインは、アーシュラーの朝、このように語りました。「我々が戦争を始めることはない。たとえそれが我々の利益になったとしても」
この他のアーシュラーの道徳的な要素には、忠誠心があります。イマームホサインの異母兄弟であるアッバースは、誰よりもこの忠誠心と愛情を示しました。彼はのどの渇きに苦しみ、川のほとりにいたにも拘わらず、自分だけがその澄んだ水を飲んだりはせず、イマームと子供たちのもとにできるだけ早く、水を届けようとしました。
実際、アーシュラーは、人間の献身と愛情を示しています。イスラム革命の指導者、ホメイニー師は、アーシュラーの日、イマームホサインは殉教に近づくたびに、その表情が生き生きとしていったと語っています。若者たちは、この戦いの中で間もなく殉教することになると知っていながら、イマームホサインとともに、我さきにと戦いに挑んでいきました。重要なのは、彼らが責務の遂行と崇高な目標を選んだことであり、自らの命をささげることによって、イスラムという木を育てようとしていたことです。
アーシュラーの英雄伝の美しさは、イマームホサインの祈祷にあります。シーア派4代目イマーム、サッジャードによれば、アーシュラーの日の朝、彼の父であるイマームホサインは、両手を高く掲げ、このように言いました。
「神よ、あなたはあらゆる悲しみの中で、私の支えであり、あらゆる苦難の中で、私の希望です。どのような困難が起こったとしても、私の蓄えの場であり、望みの場です。たとえどれほど悲しみの中にいたとしても、その困難を退けることができなかったとしても、友人たちから見捨てられても、敵に苦しめられても、それをあなたのもとに持っていき、あなたに打ち明けると、あなたはそれを取り去り、私を安心させてくれました。すべての恩恵はあなたからのものであり、すべての善もあなたからのものです」
アーシュラーの午後の礼拝は、イマームホサインの英雄伝におけるもっとも美しい崇拝です。アーシュラーの日の正午が近づいたとき、イマームホサインの教友のひとりが、そのことに気づき、イマームホサインのもとに来て言いました。「礼拝の時間になりました。私たちはあなたと一緒に生涯最後の集団礼拝を行いたいと思っています」
イマームホサインは空を見上げて言いました。「礼拝のことを思い出させてくれた。神はあなたを礼拝者の仲間に入れてくださるだろう」 それからこう言いました。「私たちが礼拝を行うまで、敵に戦いをやめるよう伝えなさい」
敵の一人は、それを嘲笑してこう叫びました。「あなた方の礼拝は神に受け入れられないだろう」 するとイマームホサインの教友のひとりが言いました。「もし神の預言者の子孫の礼拝が受け入れられないのであれば、あなたのような人の礼拝は決して受け入れられないだろう」
イマームホサインは、独特の精神的な雰囲気を放ち、戦場で礼拝に立ち、教友たちとともに礼拝を行いました。イマームホサインの献身的な教友たちの何人かは、自分が盾となってイマームホサインを守っていました。しかし、卑劣な敵の攻撃により、そのうちの何人かが、敵の矢を受けて殉教しました。とはいえ、このときの礼拝は、最も壮麗な礼拝の記憶として歴史に語り継がれています。
アーシュラーは、イマームホサインの美徳が具現された日でした。アーシュラーの出来事が起こっていなかったら、イマームホサインの一部の美徳は明らかにされないままでした。忍耐、満足、神への服従、神への信頼、勇気、抵抗、誇り、高潔さ、これらは皆、イマームホサインの圧制に対する蜂起の中で示されたものです。イマームホサインの教友や親類たちが殉教したときも、イマームホサインは心の強さを失いませんでした。
この様子を見た教友のひとりは次のように語っています。「神に誓って、敵の軍勢に囲まれ、教友や親類が殺されてもなお、強い心を保ち続けるホサインのような人物を見たことはない。乳児ののどに矢が刺さった時、イマームホサインは、どれほどつらいことがあっても、それは神が決めたことだから、それほど苦しいことではないと言っていた」
これらすべての出来事の裏には、至高なる神の意志があります。神の意志によって、その出来事が起こり、その目的に到達します。イマームホサインは、自らの約束を最も美しい形で実行しました。コーラン第9章タウバ章悔悟、第111節には次のようにあります。「神以上に約束に忠実なものがいるだろうか?」
イマームホサインの行いの中に見られる、あらゆる美しさは、至高なる神の恩寵と恩恵へと立ち返ります。春に神の美しさを目にすることは簡単ですが、秋にはなかなか見られません。これを感じられるのは、神の満足のために努力し、神に服従する人であり、最も困難な状態にあっても、神の意志の美しさを目にすることができます。イマームホサインの妹のゼイナブは、その裏切りや圧制の中で、愛情と献身の美しさを目にしていました。イブンズィヤードが、ゼイナブに、「神があなたの兄にどのような運命をたどらせたのかを見たか」と言ったとき、ゼイナブはこのように語りました。「ホサインが耐え忍んだこの苦難の裏には、神の宴がある。神が敬虔な人間に与える苦難は、硬貨の表側にすぎない。その裏には慈悲と宴がある」
正午過ぎ、イマームホサインは、殉教によって創造世界の最も美しい物語を築きました。イマームホサインが地面に倒れたとき、カルバラの大地が突然変化し、大きな嵐が起こり、暗い闇が辺りを包み込みました。空は怒り狂い、大地は恥じ入ったようになりました。しかし、イマームホサインが浮かべた微笑は、神の道において築いた英雄伝への満足を物語っていました。
キリスト教徒の思想家、フレドリック・ジェームスは、この壮大な英雄伝について次のように語っています。「イマームホサインは、世界には公正と愛、慈悲の永遠の原則が存在し、それは不変のものであることを教えた。これらのために抵抗すれば、その原則は世界に永遠に残る」