2月 09, 2016 22:41 Asia/Tokyo
  • 神の性質

コーランの節の中でも繰り返し述べられている神の性質に、「聞く」、「見る」があります。神のこの2つの性質は、人間や動物の聴覚や視覚とは異なり、耳や目を必要としません。


人間や動物の視覚は、瞳を通して網膜に映し出されたものを視神経が脳に伝え、そこからその物体を認識するというものです。また人間や動物の聴覚は、音の振動が、鼓膜や神経を有している耳に届くと、そこから脳に伝達され、音を認識する、というものです。一方で神に関してはこのような形をとりません。神は目や耳などの器官を必要としません。なぜなら、神は物質のない存在であり、世界の創造主であるからです。


 


神は見えていますが目を使って見ているわけではなく、神は聞こえていますが耳や脳や神経を使って聞いているわけではありません。シーア派6代目イマーム、サーデグはこれに関してこのように述べています。


「神は聞こえており、見えている。聴覚器官を持つことなく聞こえ、視覚器官を持つことなく見える。神のその持つ性質によって聞こえたり、見えたりするのだ」


 


少し注意深くなってみると、人間の見える、聞こえるというのは、見たものと聞いたものに対する人間の認識であり、目や耳といった器官は見たり聞いたりといった前段階を整えるものであることがわかります。しかしながら、真の意味で見たり聞いたりしているのはその目や耳ではなく、人間自身であり、その認識により事物を見たり、あるいは音を聞いたりしているのです。人間は物質的な存在であるため、見たり聞いたりするのに物質的な手段を用いるしかないのです。


 


神の存在は、物質的な影響や特性から離れているため、認識するための物質的な手段を必要としていません。神はすべての聞こえるものや見えるものを知っています。明らかに至高なる神の視覚や聴覚は、時間に限られません。なぜなら、見ることや聞くことは神の本質的な性質と見なされるからです。神は世界を創造する前であろうと後であろうと、見えてました。シーア派初代イマーム、アリーはこれに関してこのように述べています。


「神はまだ何も創造されていなかったときにも、それらが見えていた」


 


至高なる神は、すべての見たもの、聞いたものについて知っています。なぜなら、神の英知について言われたように、世界には神の英知を超えるものはないからです。これにより、すべての見えるもの、聞こえるものは神のもとに存在し、神はそれらについて知っているのです。言い換えれば、神の視覚と聴覚は、神の幅広い英知を物語るもので、神の果てしない知識を証明するものです。神は人間を創造したことから、人間が口にした事柄はすべて聞こえ、心の中で思ったことも完全に知っています。神に分からないことはないのです。コーラン第40章アルガーフィル章、信仰者、第19節から20節にはこのようにあります。


 


「彼は裏切りの目も、心の中に隠していることも知っている。神は真理によって裁かれる。彼以外に祈る神は一切裁きを行わない。本当に神はすべてを聞き、見ておられる」


 


神が見たり、聞いたりするというのは、聞くことや見ることのすべてが神のもとにあるという意味です。神はすべての物事を知っています。私たちの視線、行動、思考、信条、さらには私たちの心の中に隠されている事柄さえ、すべてを詳細に知っているのです。先のコーランの節では、神は真理によって調停するとされています。これは神の認識、聴覚と視覚を強調するものです。なぜなら見ること、聞くこと、認識することのない人は異なった問題を正しく見分けて、真理によって調停することができず、原則としてこうした調停に相応しくないからです。


 


コーラン第96章アルアラグ章、凝血、第14節には次のようにあります。


「彼(人間)は神が(すべての事柄を)見ているのを知らないのか」


この節はすべての世界に神は存在し、すべての事柄は神の目の前で行われるという事実を証明しています。神が聞いたり、見たりすることをコーランが強調していることは、神が生命の世界を支配していることを想起させるとともに、人間にとって多くの教訓のしるしを有するものです。こうして人間は神がいつも見ているということに気づき、醜い考えや行動から離れようとするのです。シーア派初代イマーム、アリーはこのように述べています。


「人々よ、神を畏れよ。神はあなた方が話していることを聞き、話さなくても知っているのだ」


 


神がこの他持つ性質は、英知です。世界の正確な作りは、私たちを世界の創造主の存在に導くように、世界の創造における神の賢明な意志にも導きます。英知とはあらゆる欠陥や混乱、堕落から離れ、揺るぎのないものであることを意味します。賢者とは、自らの行動を考え、確実にそれを行い、その行動が正しい計画に基づいて行われる人のことを言います。私たちは世界の驚くべき創造やシステムの中で注意深くなるとき、このシステムが可能な限り善良な形で、創造に相応しい方法で作られていることを実感します。神の英知を証明する最良の道は、生命のシステム、その驚きと美しさの中で深く考えることです。


 


人間が世界の存在物や天と地の創造を注意深く見つめれば、これらすべての秩序や調和、強固さが神の英知を示していることに気づくでしょう。日々人間の知識は世界の新たな事実を解明しています。人間は自然界を研究することで、生命が特別な強固さによって創造され、この世界の設計者はすべてのものを最も善良に、完全な形で創造することができるほどの英知を有していることを知るのです。イマームアリーはこのように述べています。


「神が創造したものの中に、英知のしるしが現れている。そのどれもが神の存在を証明している。創造物の中には一見、静かなものもあるが、それらは神の措置を物語っており、神の権力と英知を明らかに示すものである」


 


神の英知を示すもう一つのものに、神から起こされる動きは、すべて目的があり、意味のない無益な事柄はないということがあります。至高なる神は生命を完全な形で、一切の欠陥もなく、有益なものとして創造しています。コーラン第44章ドハーン章、煙霧、第38節にはこのようにあります。


「そして天と地とその二つの間にあるものを、我々は戯れに(目的なく)創造していない」


 


原則として、あらゆる物事の欠陥は、無知や愚かさの結果、あるいはそれを行ったものの無力さを物語っています。私たちは明らかな根拠によって、至高なる神が無限の力や英知を備えていること、世界中を完全に支配しており、あらゆある現象の完全さや不足を知っている事実を受け入れています。さらに神の力は生命をすべて網羅するほど大規模なものです。このため、もはや世界の創造主が無限の力や英知によって、自らが考慮する現象を不完全に創造することに意味はないのです。


 


全知全能の神は、生命世界の創造において、あらゆる存在物をその本質的な能力に従って出現させ、存在物に目的に達するための必要な条件や手段を与えています。人間もまた、創造の目的と極地に達するために必要な能力を授けられています。人間は精神性や知性を備えていることから、神はその英知により、預言者たちを遣わし、人類がその預言者たちの導きにより、完成への道を歩むことができるようにしています。最後の審判もまた、神の公正さや英知を証明するものの一つです。神はこの中で、人間に対して公正な裁きを与えます。正しい人は報酬を得、圧制者はその報いを受けるのです。