イランの文化におけるモハッラム月の追悼儀式
今回はイランの文化におけるモハッラム月の追悼儀式についてお話しすることにいたしましょう。
歴史の中で、カルバラでの殉教よりも規模の大きな流血の出来事はあったかもしれませんが、歴史として述べられている以上のものではないでしょう。実際、なぜ西暦680年に起こった出来事がこれほどまでに現代人の良心に訴えかけてくるのでしょうか?なぜホサインの記憶と名前は歴史の中で引き継がれ、まるでこの出来事が現代に起こったかのように見えるのでしょうか?
イマームホサインは、72人の誠実な教友と共に、大きな英雄伝を築きました。この英雄伝を思い起こすことだけでも、イマームの蜂起の偉大さを知ることができ、後の時代の圧制との戦いや運動にとっての模範となりました。
イマームホサインが殉教したモハッラム月10日のアーシューラーの出来事に関して、多くのことが言われたり、書かれたりしています。今もこれは語る余地が残っています。なぜならこの出来事は非常に大きな側面を有しており、どんなに分析や検討を行っても、さらに新しい側面が見えてくるからです。
アーシューラーは単なるひとつの出来事ではなく、真のイスラムから立ち上った文化的出来事です。アーシューラーは時代や場所に限られないだけでなく、常にシーア派の正しい行動、運動、蜂起、そして圧制や不信心に対抗するほかの多くの運動にインスピレーションを与えていました。アーシューラーの蜂起はそのときから現在まで、湧き出る泉のように、清らかな水を知識や真実を求める者の上に注ぎ、悪に対する正義の多くの運動に影響を及ぼしました。
1979年のホメイニー師が主導したイランイスラム革命は、アーシューラーの影響を受けています。シーア派の聖職者たちは常にアーシューラーの文化を守るために、それを長期にわたって語り続けていただけでなく、その復興とその価値観の維持に努めました。
アーシューラーの文化的に崇高な内容の復活は、あらゆる時代、その状況に応じて、真のイスラムの文化や知識を広めるなど、聖なる目的を進めるうえで非常に大きな影響を及ぼしています。シーア派の歴史はこうした復活を明らかに証明しています。
アーシューラーの蜂起と、その殉教者の長への追悼は、イスラムの歴史において長い間イスラムの地における重要な宗教儀式の形で行われてきました。この中で、イランは数百年前から、モハッラム月の追悼の重要な中心地となってきました。当初からイラン人は他のどの民族や国民にも増して、預言者一門に愛情を示し、追悼集会のみならず、イスラム建築、タイル細工、レンガ細工といった芸術の分野でも顕現してきました。
イラン各地では、イマームホサインとその教友たちへの敬意として、特別な宗教行事が行われています。イラン北部のアルダビールでは、おそらく最も熱情あふれるモハッラムの追悼儀式が行われているといわれています。アルダビールでは、タシュトゴザーリーという名の特別な儀式が行われています。この儀式では金のたらいが、カルバラーで水運びをした者の皮の水袋、水、川、そしてイマームホサインと教友たちに対して閉ざされたユーフラテス川の象徴となっています。
アルダビールの人々は3日間行われるタシュトゴザーリーの儀式の後、伝統に従ってモハッラム月の2日から追悼を開始します。殉教劇や、巡礼服・蝋燭を使った儀式もアルダビールのアーシューラーの特徴です。
イラン南部の人々も、盛大な追悼儀式を行います。ブーシェフルの追悼の音楽はイラン南部の追悼儀式のもとになる音楽です。ブーシェフルの「夜明けの儀式」は、哀歌から構成されており、早朝の礼拝の呼びかけまで続けられます。朝にならないよう、アーシューラーの日がやってこないようにという希望を表しています。この地域の人々は、この時期、仕事を中断して、山や郊外に出て追悼を行うべきたと考えています。
イラン西部ロレスターン州でも、モハッラムの特別な行事が行われます。一部の地域では、9日目のタースーアー、10日目のアーシューラーに食事が振舞われます。
ブーシェフルの伝統的な追悼行事に、人々が円形になって自分の胸を手で打つものがあります。ホッラムシャフル、ヤズド、ナーイーン、チャハールマハールバフティヤーリーでもそれぞれ独自の行事があります。
アーシューラーの文化はイランの民族的アイデンティティ、文化に根ざしています。イスラム革命はこうした文化によって勝利し、イランの若者たちはこうした文化によって、世界の覇権主義の侵略に立ち向かい、8年間のイランイラク戦争で国を守り、勝利しました。