11月 07, 2016 16:26 Asia/Tokyo
  • 神が預言者を人類に遣わす必要性(1)

イスラムにおける最も基本的な原則として、唯一神の問題とその証明を検討した後は、預言者の存在、そして神が預言者を人類に遣わす必要性についてお話しすることにいたしましょう。

預言者の存在といったイスラム教の信条の原則のそれぞれは、唯一神信仰や来世の原則と密接な結びつきを有しています。言い換えれば、預言者の存在を信じることは、唯一神の世界観に基づいています。つまり、すべての存在物を完成に導く全知全能の神への信仰の原則に基づき、人間を完成に導くための預言者の到来は必要なこととなっています。

 

唯一神信仰は、世界が創造主、また統治者や立法者を有していることを意味しています。その立法者は人間やその要求、必要性を完全に把握することで、幸福な生き方を預言者を通して人間に教えています。イスラムにおける預言者の存在とは、神から人類を導くために遣わされたムハンマドやその他の預言者を指します。預言者はアーダムから始まり、ムハンマドで終わります。

 

イスラムの思想家たちは、預言者の存在の定義において、数多くの説明を行ってきました。これらの定義においてはいくつかの共通性があります。それは、預言者はすべて人間であること、彼らが遣わされた目的は人間の導きであること、その内容は価値や原則を広めることであるというもので、見解と行動の点から、現世と来世において人間のために幸福の下地を整えています。この教えの源は神の啓示であり、預言者による啓示の受諾は他の人間の介入なしに行われます。このため、預言者は人間を導くために奮い立ち、清らかな生きた真理や教えを人々に伝える人たちだということができます。神の使者たちの中で、一部は啓典や聖法を持ち、また一部は以前の聖法や教えを広めるために遣わされました。

 

そもそもどんな理由で預言者たちは遣わされ、人類社会に現れた目的は何だったのでしょうか?ここで具体的な例を挙げてみましょう。経営者や責任者のいない組織や役所が放置されたままであるというのを聞いたことがあるでしょうか。知恵のある人間は決して責任者のいない組織が運営されるとは考えません。幅広い目で問題を見れば、人類社会の運営のためには導きや法が必要であることがわかるでしょう。壮大な生命の世界が、また最も優れた創造物である人間が、目的や計画、導きなくして存在することができるでしょうか?

 

こうした中、どんな賢者も世界が目的なく創造されたという主張を受け入れることはありません。なぜなら全知全能の神は何事も無駄に行うことはないからです。明らかに創造のシステムにおいて、また創造物を完成に導く上で労を惜しまない創造主は、人間の人生計画に関しても準備を整えます。もし人間がこの世において放漫な状態に陥り、誰もが好き勝手な行動をとり、自分の利益のみを確保できる道を歩むのであれば、人類社会は衰退や崩壊に直面するでしょう。というのも要求や利益の衝突は、緊張を引き起こし、社会や個人の関係を引き裂き、終わりのない混乱に繋がるからです。

 

預言者の存在の必要性という論点から、人間の自由意志、選択の問題についてお話いたしましょう。ご存知のように、人間の創造の目的は、選択や自由意志によって自らの道を完成に向かって進むことにあります。言い換えれば人間は、至高なる神への崇拝と好ましい行いによって神の美徳や慈愛を受けるにふさわしくなるように創造されています。真の完成と幸福は自由意志の動きによってのみ生み出されることから、人間は二つの選択の道の前に置かれています。この選択もまた、明らかに正しい認識を必要としています。

 

つまり人間は完成に至る目的と道を認識し、それには様々な困難があることを知ったときに、自らの道を意識的に、そして自由に選択することができるのです。そして神の統治に必要なのは、このような認識を持つための手段を人間が保有することです。それは、客人をゲストハウスに招待するときに、そのゲストハウスに至る道が示されないのであれば、客人は当惑してしまい、ゲストハウスに到着することが出来ない、ということと同じです。神は人間がふさわしい行動を行い、完成の道を進むよう創造されました。この点で道も彼に示されているのです。

 

また、理性と感性から手に入る人間の通常の認識は人生のニーズの確保において重要な役割を担っていますが、個人や社会、物質や精神のすべての側面において完成と幸福の道を知るためには、十分ではありません。このため神の統治には、完成の道を知るために理性や感性を超えた別の道が必要です。これこそが、預言者に下された啓示の道です。人々もまた、彼らによって幸福や完成に至るために必要なものを習得するのです。

 

このことを簡潔に言うなら、人間は自主的な存在であり、完成に至ることは、自由意志による行動を起こすことで可能となりますが、そのために幾つかの事柄が必要です。その中には、正しい道の認識、その作業を行う下地、人間の選択能力などがあり、このため神はその恩恵によって選択の力を人間に与えたり、正しい道の認識の手段や下地を人間に示しているのです。

 

理性と感性は人間の認識の手段の一つですが、これにもかかわらず、人間に幸福の道を示すための必要な能力を享受していません。そのため英知の慈悲深い神は、理性や感情以外の別の手段によって、人間に道を示し、人間の創造の目的を達成させています。この道は啓示と見えない世界に関連するものですが、これは一連の条件や能力を必要とし、すべての人がそれを持っているわけではありません。そのため、啓示を受けることのできる選ばれた人間たちは、神のメッセージを伝え、人々を導く役目を負っています。彼らこそが、神によって選ばれた人々、神の預言者なのです。

 

それでは、預言者たちはどんな目的を追求しているのでしょうか。聖典コーランは数多くの節の中で、預言者の目的について語っています。その最も重要なものは、人間を無知や迷いから救い、光のある方向に導くというものです。神はこの真理に関して、コーラン第14章イブラヒーム章、アブラハム、第1節でコーランについて、このように述べています。

 

「アレフ、ラーム、ラー、(これは)あなたが神の許しによって人々を(多神教や無知、反乱の)暗闇から(信仰の)明るさに、不敗の賛美すべき神の方へと救い出すために下した書物である」

 

この節では、コーランは人類の導きと救済の書物だが、コーランの至高なる教えを明示し、社会でそれを実行に移す人々がいるべきだという重要な点が指摘されています。つまり真理の道から迷える人々を暗闇から幸福の光へと導く預言者のような指導者が必要なのです。