4月 09, 2017 15:39 Asia/Tokyo
  • 預言者の不謬性

今回の番組では、預言者の不謬性、預言者たちが罪や誤りから免れていることについてお話いたしましょう。

前回の番組でお話したように、不謬性は神の預言者の重要な特徴です。罪や誤りのない不謬性は内的な抑止力であり、完全な信仰心により、人間の中に表れるものです。預言者たちは清らかで選ばれた人物であり、欲望によって罪深い行為に引き付けられ、過ちを犯すことはありません。

 

不謬性という特徴は、社会を導く責務を負っている預言者を道徳的な腐敗や罪深い行為、さらには誤った思考から守っています。このためそうした人間はいかなる罪や過ちを冒すことはないのです。実際、不謬性や道徳的不可侵性は、預言者の地位に値する最も重要な条件です。コーランは預言者を道徳的に優れた性質を持つ人々だとしていますが、圧制を行わず、過ちも罪も犯さないことが、こうした責務を負うための決定的な条件と見なしています。こうして神は僕の導きの手綱を、罪深く、圧制にまみれている人物の手に委ねることを許さないのです。

 

コーランの見方から、不謬性の内容をはっきりと理解するために、必要な点を挙げましょう。コーランは数多くの節の中で、人々が無条件に神や預言者に従うよう求めています。例えば、第3章アールイムラーン章、イムラーン家第132節では次のようにあります。

「神と預言者に従いなさい。そうすれば慈悲を受けられるだろう」

この節は信仰を持った人々に対して、神に従うよう求めています。現在の世界の起点に心からの信頼を寄せる人は神が生命の世界を支配しており、すべてのものが神の指令下に置かれていると考えています。このため、人類の幸福のために送られたものに従うべきなのです。

 

コーランの節は次の歩みとして、人々を預言者の追従に呼びかけています。預言者は神から遣わされ、私利私欲で語ることはありません。そうした尊敬すべき預言者は清らかで罪や過ちから免れています。彼は一点の曇りのない鏡のように神の預言を人類社会に反映します。コーランの節に示されているように、預言者への追従は無条件に、絶対的な形で行われています。預言者が様々な逸脱や過ちに巻き込まれたとしたら、預言者への追従に関する神の指示は、条件付であるべきでしょう。つまり預言者の行動がふさわしく正しいものである時、人々はそれに従い、過ちに直面する際には従わない、ということです。こうした中、コーランの様々な節における預言者への追従の指示は、無条件のものとなっています。

 

ここで他のコーランの節と比べることで、問題を明らかにしましょう。コーランの文化において両親は尊重されるべき地位にあり、子供たちは彼らを敬うべきであるとされています。コーランは人間に対して両親に関する事柄について勧告しており、母が妊娠中に被る様々な困難について指摘しています。母は子供を産んだ後、授乳期間中にも子供を育てるために多くの困難を強いられます。コーランは人間に、両親に対して謙虚になるよう、彼らに従い、彼らの献身的な努力に対して感謝の気持ちを示すよう呼びかけています。こうした中、コーランは両親の重要性を認めていますが、彼らに従うことは条件付きであり、両親が逸脱し、子供に不信仰や誤った行動を呼びかける場合は、彼らに従うべきではないとはっきりと述べています。コーラン第31章ログマーン章、ルクマーン、第15節にはこのようにあります。

 

「もしその二人(両親)があなたが知らないものを私の仲間にしようとすれば、彼らに従ってはならない。しかしその二人に対して、この世において、好ましい(ふさわしい)方法で接しなさい」

 

コーランの節を比較してみると、両親への追従は条件付きですが、預言者への追従は絶対的なものであることがわかります。こうして、預言者は不謬性を有しており、彼らに従うことに何の条件もないことがわかるでしょう。これ自体、預言者が清らかで、過ちから免れている理由なのです。

 

前回の番組では、預言者が罪から免れていることについてお話ししました。もし不謬性が天の、目に見えない恩恵、あるいは外部の要因で、預言者が罪を犯そうとするたびにそれらを防ぐというものであれば、その場合は、預言者が罪や過ちから離れていることを彼らの特権とみなすことはできません。言い換えればもし預言者が罪を犯す力を持っていない、あるいは必要に迫られて罪を回避しているのだとしたら、こうした特徴は彼らの優れた点とは見なされないでしょう。なぜならこの場合、彼らは犯罪行為を行うことはできず、預言者の不謬性の理由とはならないからです。

 

ここで、問題をさらに詳しく説明するために、預言者の不謬性、清らかさの要因についてお話することにいたしましょう。すでにお話ししたように、預言者が不謬であるということは、罪を犯す力が彼らにないということではありません。預言者はほかの人々と同じように罪を犯す可能性がありながらも、罪を回避します。なぜなら彼らは罪のもたらす破壊的な結果を知っている一方で、創造主の力に対するその知識や認識は幅広く、深いものだからです。このため自らの意志で、罪に近づくことを回避するのです。このため不謬性は罪の回避を強制することを意味しません。なぜなら預言者は完全な意志をもって汚れから距離をとっているからです。

 

問題を明らかにするために、例を挙げてみましょう。知識のある人間がパラシュートや自分の安全を保障する手段なくして、高い場所から身を投げたり、自分の意志で死に至る致命的な毒を飲むようなことがあるでしょうか?人間がこうしたことを行わないのは明らかです。人間がこうしたことをやめるのは、強制からでしょうか、それとも理性や常識、その結果を知ったりしていることからでしょうか?明らかに悲劇的な結果を考慮し、その行為から遠ざかるでしょう。

 

預言者の不謬性の特徴は、このように行動します。預言者の不謬性もまた知力と同じように、預言者が罪を犯す能力があるにもかかわらず、彼らにそれを行うのを禁じています。彼らは罪の苦々しい結果を完全に認識しており、こうした正確な認識により、罪を行うイメージをも頭の中で働かせません。神の預言者の不謬性は特別な見識から生じており、それによって現実的な見方で罪の結果を知るのです。

 

さらに、預言者の不謬性における最も効果的な要素は強い信仰心、世界の神に対する彼らのゆるぎない強固な信条です。常に神が自らを監視していると考え、自ら常に全知全能の神の御前にいることを認識しています。罪の破壊的な結果を知ることだけでは人間を罪や欲望から遠ざけるためには十分ではありません。私たちは個人や社会の生活において自らの慣習や行動の害悪を認識している人を目にしています。この認識は彼らの中で抑止力とはなっていません。多くの人がアルコールやたばこ、麻薬の害を知っているにもかかわらず、その依存症になっています。そえゆえ腐敗や罪の破壊的な影響を知ることだけで人間を抑制することはできないのです。預言者が罪から免れている最も決定的な要因は、全知全能の神に対する彼らの信仰や知識なのです。

 

このように、完全な信仰と見識に基づく不謬性は人間から意志を奪うことはありません。預言者とイマームは他の自由意志をもつ人々と同じように、善悪両方の行動をとることが出来ます。しかしそれらの偉人たちは深い見方により、神の偉大さを生命の中に感じ、神に心を寄せ、神の色や香りをまとわないあらゆるものを排除します。彼らの心は神への愛と知識で満たされており、これが彼らに欲望をコントロールさせ、神に背く行為から遠ざけているのです。