カタールの離反
サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーン、エジプトの4カ国は、カタールと断交しましたが、明らかにカタールとサウジアラビアの断交は、その中でもより大きな重要性を有しています。
カタールとサウジアラビアの緊張における、最も重要な理由のひとつは、カタール政府がサウジアラビアの影響から脱しようとしていたことにあります。このため、新聞・ジ・アトランチックが6月5日に発表したアナリスト・ウルリッヒセン氏の記事では、サウジアラビアとカタールの緊張の最も重要な理由は、カタールが独立した地域政策を取り、サウジアラビアの影響から遠ざかったことにあるとしています。
重要な疑問としては、ペルシャ湾岸の小国のカタールの政府が、どのようにしてサウジアラビアの影響下から脱出し、中東地域で独立した役割を果たすようになったか、ということが挙げられます。
カタールはタミム首長が1995年に首長に就任してから、経済、メディア、観光、教育の4つの分野での戦略を実行し、サウジアラビアの影響下にあった小国から、影響力ある、サウジアラビアと競合する国となりました。
経済分野
カタールは天然ガスへの投資と、天然ガスによる収入により、この10年で、貧しい国から経済国となりました。GDP国内総生産や国民一人当たりの収入など、カタールの経済指標は2005年から目覚しい形で伸び、世界で最高のレベルに達しました。これにより、カタール政府は失業問題やインフレ、貧困には直面していません。世界のエネルギー市場において、大きな役割を果たし、観光経済や教育、スポーツなどの分野においても、世界で最高のレベルに達したのです。
カタールはまた、石油収入に依存するほとんどのアラブ諸国とは違い、天然ガスによる収入に頼っています。OPEC石油輸出国機構による統計では、カタールは25兆立方メートルの天然ガスの埋蔵量で、世界第3位となっており、世界の天然ガス埋蔵量の14%を占めています。カタール産天然ガスの輸出の80%は、LNG液化ガスによるもので、2006年には世界最大の液化ガス輸出国となりました。
カタール政府は、莫大なエネルギー収入を、非エネルギー分野に費やし、モノカルチャー経済からの脱出に向かって進んでいます。産業、建設業、運輸、教育、観光業、国際企業に対する株式投資など、経済の多様化に関するカタールの政策は、莫大なエネルギー収入によって実施されています。
カタール政府は世界各国、特にアメリカにおいて、とりわけ建設業に投資しています。確かに一部の投資は経済的な目的というよりも、カタールの名前をアメリカ国内に示すため、そして、両国の関係を強化するために行われています。
また、カタールは2006年、ハリケーン・カトリーナの直撃を受けたアメリカの被災者に1億ドルの支援を提供しました。カタールの政府高官は、これに関して、「ある日我々がカトリーナのようなハリケーンに直面する可能性もある」と語りました。
メディア
カタール政府は、アルジャジーラ・テレビの設立に莫大な投資を行いました。アルジャジーラは1996年、ハマド・ビン・ハリーファ前首長により設立されました。
ハマド・ビン・ハリーファ前首長は、1億5千万ドルの初期投資により、アルジャジーラを設立し、5年間にわたり、毎年、3000万ドルをこのテレビの運営に割り当てていました。
一部のアナリストは、アルジャジーラを新興のメディアだとしました。それは、初めての24時間放送のアラビア語メディアであるだけでなく、解説者やゲストに様々な見解を提示することを許可したメディアだったからです。アラブ諸国の政権批判も、その中に含まれていました。一方で、アルジャジーラの創設前は、アラブ諸国の政権批判をしないことは、アラブメディアの原則のひとつだとみなされていました。
アラブ世界におけるアルジャジーラ・テレビの重要性について、2001年、著名なジャーナリスト、トーマス・フリードマンは次のように語っています。
アルジャジーラはアラブ世界のメディアにおける最大の出来事だっただけでなく、最大の政治的な出来事でもあった。
一部のメディアの研究者は、アラブの革命は、アルジャジーラの革命だと見なすべきだとしています。
つまり、もしアルジャジーラの報道がなければ、アラブ諸国の人々は、数十年間にわたり全面的な権力を握っていた支配者を失脚させられなかったのです。
アルジャジーラのワダフ・ハンファル元社長や、チュニジアのナビール・ライハニ特派員などの一部の関係者も、次のように語っています。「アルジャジーラは革命の道具ではなく、革命も起こさなかったが、アラブ諸国の情勢変化が始まった際、アルジャジーラは情勢変化の中心にいた。もし、アラブ世界の変化が回避できないものであったなら、アルジャジーラはその報道により、その変化を促進した」
ライハニ特派員はマルクス主義の決定論の概念を用いて、アルジャジーラの活動をこのように説明しています。
「マルクスが歴史における人間の役割について話すとき、それを妊娠した女性の状態に例える。この女性はいずれにせよ出産しなければならないが、助産婦が出産に立ち会うことで、彼女の出産を容易にする上での支援となる。アラブ世界も、妊婦のようなもので、革命的かつ急進的な変化の可能性を有していた。アルジャジーラなどのメディアは、この変化において助産婦の役割を果たし、変化を促進した」
観光部門
観光業は、カタール政府が多くの投資を行った、最も重要な部門のひとつです。
世界旅行ツーリズム協会の統計によれば、観光業は直接的な形で、カタールの国内総生産に対し、34億ドルの貢献を行っているということです。
観光業の拡大がインフラ部門への投資を必要とすることから、観光業は、経済の多様化を実現する中で、カタール政府を大いに支援しています。観光業は、カタールの国内総生産の6.7%を占めています。
カタール政府の航空産業、ホテル産業、スポーツ、教育分野への投資により、カタールの観光経済の地位は向上しました。カタール政府は観光業の発展のため、航空産業に莫大な投資を行い、これによりカタール航空が1994年に創設されました。現在、カタール航空はもっとも有名な航空会社のひとつとされています。実際、カタール政府によるブランド化戦略は、カタールの治安を確保する上での方法のひとつとみなされています。
カタール政府はスポーツ分野に対する莫大な投資により、重要な国際試合の開催地となることができ、このこともまた、観光業界の発展に大きな影響を与えています。スポーツ部門におけるカタールの大きな成功は、インフラ開発、観光収入の増加に大きな影響を与えることになり、またこれによって、サッカー・ワールドカップ2022の開催国となりました。
2011年から2016年のカタール政府の5年間の戦略の中で、2022年のサッカー・ワールドカップの開催国となったことにより、この国に良好な経済的影響が及ぼされる機会が生じたとみなされています。しかし、ワールドカップ開催において、最も重要なのは、継続的なインフラの構築と、観光業をはじめとした非エネルギー分野の安定という結果がもたされることでしょう。
教育部門
カタール政府は、教育分野における根本的な改革と莫大な投資により、大学教育の質を高めると共に、世界各国から多くの大学生を呼び込んできました。この要素も、観光業の発展と、カタールのソフト・パワーの強化に大きな役割を果たしています。カタールは教育分野での成功のために、重要な機関の改革を行いました。例えば、この改革には、教育都市の設立、カタール大学の政府からの独立、国家研究基金の創設、教育高等評議会の結成などが挙げられます。
カタール政府は、教育や学術研究の機会を広げ、社会開発を強化するため、1995年にカタール財団を、1998年に教育都市を創設しました。この教育都市は、特区とされました。また、カタール財団の創設者、モウザ・ビント・ナセル第三王妃は、この教育都市の主要目的を、研究機関、大学、産業間の関係構築だとしています。また、教育都市は最も重要な産学プロジェクトであり、ナレッジベース経済を自身の担当業務だとしています。
カタール政府はこの数年、およそ400億ドルを教育プロジェクトに費やしています。教育基金により、西側、特にアメリカの大きな大学や学術機関とカタールの教育的関係が強化されています。カタールの教育政策により、同国の大学の学生数は増加し、教育目的の観光業も成長を遂げることになりました。
イギリス・ダラム大学で政治・国際関係学部の学部長をつとめるイラン人のエフテシャーミー教授は、カタールの教育分野での投資の重要性について、次のように語っています。
「カタールにおける国際的に有名な大学の分校の設立は、新たな高等教育のモデルとなっており、これにより、カタールは中東地域の教育の中心になる」
カタールの投資、特にさまざまな分野におけるブランド化戦略により、このペルシャ湾岸の小国は様々な国際機関に加盟し、ペルシャ湾岸協力機構の最重要国としてカタールの名を示すことが出来たのです。国連安保理の理事国入り、国連総会の議長就任、2022年のサッカーのワールドカップ開催は、こうした戦略結果の一部なのです。
こうした政策により、サウジアラビアは、カタール政府がサウジアラビアの影響下から脱するだけでなく、地域のサウジアラビアのライバルとなると考えています。サウジアラビアがカタールとの最近の緊張の中でとった行動は、この見解を裏付けています。
サウジアラビアとその同盟国は、カタール航空が圧力を受け、天然ガス部門にも影響が出るよう、陸路、海路、空路を封鎖してカタールの経済を麻痺させ、アルジャジーラ・テレビを活動休止に追い込もうとしいます。その主な目的はカタールをサウジアラビアの影響下に置き、様々な分野、特にイランとの関係における独立した外交政策を取ることを制限することなのです。