10月 23, 2021 20:09 Asia/Tokyo

この番組では、モスクの果たす様々な機能についてお話するとともに、世界各地にある主要なモスクについてご紹介してまいります。

モスクは、現在のサウジアラビアの町メディナにおいて、預言者ムハンマドによりイスラム政権が直接打ち立てられて間もないころの、初の社会組織です。この聖なる組織は、1400年間以上にわたり波乱万丈の歴史を歩んできました。ひところは、モスクの外観が国王の宮殿と思われるほど豪華に変貌したこともありました。しかし、神の僕としての服従の精神を表明し、神に礼拝する聖なる場としての、内面に秘められた本質が失われたことはなく、それは今後も維持されると思われます。

実際に、モスクは地上における清らかな一角であり、メッカの方向を向いて礼拝し、神を崇拝する場所に当てられています。そして多くの場合、その周辺は壁で囲まれていますが、そうでない場合もあります。また時には絹織りの絨毯が、またある時には柔らかい砂が敷かれています。さらに、その上には壮大な建物や美しいドーム型の屋根や天井が存在する場合もありますが、そのいずれもないこともあります。しかし、興味深いことに、ごく普通の質素なつくりのモスクであっても、豪華な造りのモスクと同様に、清らかで聖なる場所には違いありません。

イスラムの預言者ムハンマドは、メッカからメディナに聖なる移住を行った後、まず自らの統治を確立させるために、政治の本拠地及び総司令部となるモスクを建てました。そのモスクは人々の間で、自分たちの礼拝場所、そして政治、文化、社会的な拠点と見なされることになります。また、そこでは統治する側とされる側の双方が一堂に会し、神の掟が発表され、伝授される場所でもありました。

このモスクには、預言者とその教友たちが一堂に会し、神の預言者が優しさと情愛を込めて、人々を幸せに導くために神の掟を社会に広めていました。彼は、全ての掟を実施する中で自ら先頭に立ち、まず自分が命令に沿った行動を開始して、社会における実践の模範にもなったのです。神の預言者との面会を希望する人は誰もが、モスクに出向いてきました。この聖なる場所において、預言者は自分が望んだ事柄を全て自ら、或いは自らの教友の1人を介して人々に伝えていたのです。言い換えれば、メディナに設立された預言者のモスクは、宗教的な義務の履行にあたっての、イスラム教徒たちの主要な集まりの場であることに加え、イスラムという世界的な運動の学術的、政治的、社会的な活動の中心地でもありました。イスラム政権の礎が築かれたまさにこのモスクから、世界の人々にイスラムの明白な原則や基本が発信されたのです。

 

預言者ムハンマドは、メディナ周辺に到着して間もないころ、メディナ近郊のクバーという地区でのモスクの建設に当たりました。このモスクの建設に関しては、信憑性の高い歴史書において、次のように述べられています。

「ある月曜日のこと、神の預言者はクバー地区に到着した。この地区は、メディナの周辺にある、気候条件の良い場所とされていた。このため、クバーには数多くのナツメヤシ園が存在している。この地区の人々は、神の預言者を歓迎した最初の人々であった。神の預言者は、クバー地区に到着してからの数日間をここで過ごし、娘のファーティマ・ザハラーを初めとする自分の家族の一部や、娘婿のアリーが預言者と合流した。そしてこのとき、全員そろって、当時はヤスリブと呼ばれていたメディナに向かって出発したのである」

神の預言者はクバーに滞在していた4日の間に、この地区にモスクを建設しました。このクバーのモスクは、神の預言者が基礎となる最初の石を置いたモスクとされています。彼はその後メディナの町に暮らすようになってからも、毎週土曜日あるいは月曜日にクバーの地にやってきては、このモスクで礼拝を行っていました。

 神の預言者は、クバーに4日間滞在した後の金曜日に、人々の熱狂的な歓迎の中、メディナに到着しました。人々は集団でやって来ては、預言者に自分たちのもとに来て欲しいと頼み、中には預言者の乗っていたラクダの手綱に手をかける人もいました。しかし、預言者は次のように告げたのです。

“このラクダは、任務を言い付かっているから、ここを通して欲しい。これから先のどこでも、ラクダが膝をついて地面に座ったら、私はそこに落ち着くだろう”

預言者のこれらの行動には、2つの重要なポイントが隠されています。1つは、預言者のモスクが建てられた場所が、神によって選ばれた場所であり、この場所の選定には預言者の意向は全く関係なかったということです。そしてもう1つの点として、この行動により、相互に争うことの多かったメディナの部族たちの間のあらゆる誤解の元凶がなくなったことが指摘できます。

預言者の乗ったラクダは歩き出し、現在の預言者のモスクが建っている場所で立ち止まりました。こうして、場所が決まったことから、預言者は正式にモスクを建設する命令を出したのです。モスクの建設と設置における重要な点は、預言者自身が積極的にかかわり、まず彼が基礎となる石を置き、しかも他の誰よりも多く労働に当たったことです。預言者の教友たちが繰り返し、自分たちが作業をするから休んでほしいと告げたにもかかわらず、預言者はそのまま自分の作業を続けました。当然、預言者のこの働きぶりにより、教友たちが、さらに意欲的に、そして真剣に自らの指導者に従ったことは言うまでもありません。

 

それではここからは、メディナの町にある預言者のモスクについてご紹介することにいたしましょう。

預言者のモスクの建築様式は、他にはない独自のものとなっています。このモスクには、他の建物はもちろん、他の宗教の礼拝所を模倣したと思われる要素は一切見られず、完全にイスラムの精神に沿ったものであり、独自性に溢れています。預言者が現在のシリアのダマスカスの町やメソポタミア地域を旅していたことに注目すると、彼は当時のキリスト教会やユダヤ教のシナゴークの建築様式の全てを、確実に記憶していたと思われます。しかし、モスクの建設に当っては、そのいずれの設計構造も利用しなかったのです。

このモスクの壁は、高さは1メートルの部分までは石材で、残りの部分は日干しレンガで造られています。また、天井はナツメヤシの葉で覆われており、この上なく簡素な造りとなっています。その当時、モスクの一部(である回廊)が貧しい人々の生活場所に当てられました。彼らの多くは他の土地からやって来た移民であり、メディナへの移住により、自らの家屋や財産、さらには自分の属する部族内での立場をも失ったのです。しかし、彼らは貧困状態を受け入れ、モスクの回廊に身を寄せながらも礼拝と教育、そして聖なる努力にいそしみました。これらの人々は後に、スッファと呼ばれるモスクの回廊の部分にちなんで、スッファの友として知られるようになったのです。

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モスクの建設と同時に造られた建物の1つは、モスクに隣接した、ホジレと呼ばれる神の預言者の家でした。その後、他の教友たちもそれぞれ、できる範囲でモスクの傍らに自らの住み場所を造り、モスクに向かって開く扉をもうけ、礼拝の時間にはそこからモスクに入りました。預言者は、メディナに聖なる移住を行ってから3年目に、娘婿のアリーの家の扉以外は、これらの全ての扉を閉ざすよう命じました。

 

預言者が他界した後、イスラムが広まりイスラム教徒の数が増加して、預言者のモスクでは手狭になったことから、為政者たちはこれを拡張することに決めました。この拡張工事は複数の段階にわたって行われ、アッバース朝時代の終わりまで続き、預言者のモスクは総面積が9000平方メートルにまで拡大されました。

預言者のモスクは、オスマン朝時代に何度も改修工事を重ね、拡張されました。しかし、その主な改修工事は19世紀末から20世紀初頭のオスマン帝国の第34代皇帝・アブデュルハミト2世の時代に開始され、13年かけて行われています。

現在、預言者のモスクの碑文に見られる預言者一門、無謬なイマームたち、そしてイスラム政権の支配者カリフ、そして教友たちの一部の名前は、オスマン朝時代を思い起こさせるものです。これらの1つに、シーア派第12代目の隠れイマーム・マハディーの名前が含まれています。この名前は、長年にわたり、このイマームがまだ生きていることを示す表記がなされていました。しかし現在では、その刻まれている習字体の文字に変更が加えられ、存命であることを示す文字が改変されてしまっています。

預言者のモスクは、サウード家の統治時代になってからも、複数の段階に分けて拡張、改修工事が行われてきました。メディナの町は、このモスクのおかげでこの上ない栄誉を誇っています。それは、神の預言者が語った次の文言によるものです。

“預言者イブラーヒームは、メッカを聖なる領域とし、その人々のために祈祷を捧げた。そして私も、メディナの町を安全な聖廟にしたのである”

 

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