3月 14, 2016 20:09 Asia/Tokyo

今回は、彼らバルーチ人の歌の詳細についてお話します。

スィースターン・バルーチェスターン州にはバルーチ人と呼ばれる人々が独自の文化を持っており、音楽も同様で、弓奏楽器のサルーズや、大正琴にあたるベンジョーなど他のイランの地方とは異なる楽器を使っているものの、歌がその音楽の基本であることについて説明しました。

バルーチ人の音楽には、短い抒情詩が基本となっているリークー、昔の祈祷儀式グワーティーの際に使われた歌、英雄の生き様を語り、その殉教をたたえる歌があるということについては、前回も軽く触れました。

バルーチェスターンにおける英雄叙事詩がたりには、イランの国民的叙事詩『王書』に出現する豪傑ロスタムなど、ほかの地域でも知られているイランの英雄について取り上げて歌うこともあります。たしかに『王書』の中では、ロスタムはザーボリスターンという場所を故郷としており、これはスィースターン・バルーチェスターン州の中心都市のひとつ、ザーボルあたりではないかといわれています。しかし、バルーチの掟と誇りを貫き、その信念によって命を落とした、地元ならではの英雄の生き様が歌われることも多いのです。彼らの生き方は現代人からすると理解不能なところもあるかと思いますが、彼らはバルーチ人としての生き方を全うした、英雄として尊敬されています。

その一人に、ダード・シャーという人物がいます。

ダード・シャーは1957年3月、イランで活動していたアメリカ政府の関係者ケヴィン・キャロルとその妻アニタ、同業者とイラン人運転手を殺害しました。アメリカの圧力を受けたパフラヴィー政権はダード・シャーを逮捕すべく、軍を派遣するものの、ダード・シャーは山岳地帯にこもって抵抗し、これを退けます。しかし、翌年の1958年、だまし討ちのような形で交渉の場におびき寄せられ、パフラヴィー政権は信用できないと降伏を拒否し、その結果、その場で殺害されました。

もう一人、地元の有名な英雄にハンマル・ジーヤンドという豪傑がいます。この人物はおよそ500年前のいわゆる大航海時代、イランを侵略し、砦を構えていたポルトガルに立ち向かい、その中で殉教した人物です。ハンマルは力の強い豪傑でしたが、奮戦むなしく、ポルトガル側に捉えられます。ハンマルを気に入ったポルトガルの軍司令官は彼を味方につけようとし、キリスト教への改宗と娘との縁談を持ちかけますが、彼は断固として拒否します。司令官の娘もハンマルに恋をし、彼に求婚します。しかし、ハンマルは次のように語りました。

俺は物憂い瞳湿らすバローチの女が好きなのだ。

長いチュニックを纏い二重のショールで美姿をも覆う

ハンマルは南蛮女どもは好きにならん

極上のチャンガーラーン椰子を蠅といっしょに食える野蛮人

これを聞いた娘は父である司令官にハンマルを殺すようそそのかします。ハンマルは死刑となる際、故郷の空に向かって、辞世の句を読みました。

おお、海を渡りくる雲たちよ ハンマルの便りを伝えてよ

ハンマルの音沙汰 今でも待っている家族のもとへ

ろくでなしのヨーロッパ人どもが ハンマルを捕らえたのだと

おーいお前、俺の晩飯用に粉をもうひくなよ

俺の晩飯のために 羊を屠る手も止めてくれ

なお、イラン南部には、現在もポルトガルの城塞跡が残っています。

もうひとつ、スィースターン・バローチェスターン州にはグワーティーという祈祷・治療の儀式に使われた音楽が存在します。グワーティーとは、精霊や悪いものに取り付かれた人を治癒する儀式で、体の中に住み着き、悪影響をおよぼすとされる精霊や悪鬼の類を説得し、体の中から追い出すという、いわば「悪魔祓い」のような儀式を指します。このグワーティーは今では一般的ではありませんが、グワーティーの際にヒーリングのために使ったといわれる音楽は、今でもこの地方の音楽に残っています。なぜこの儀式で音楽が使われたのかについては、当時は音楽だけが人体に入っていけると考えられていたことによります。こういった悪霊は、地域、あるいは地元のイスラム神秘主義者の力を借りて除霊することが可能と考えられていたため、彼らををたたえる歌が歌われます。また、こういった神秘主義者の名前を繰り返し呼ぶことで、治癒者はトランス状態に入り、悪霊などと交渉して体から追い出します。

グワーティー音楽の中から、シャフバーズ・カランダルという神秘主義者をたたえる曲をお届けしましょう、シャフバーズ・カランダルはパキスタンに埋葬されている神秘主義者で、彼をたたえる歌は、イランよりもインドやパキスタン、バングラデシュで非常に有名です。ある有名なバージョンでは、ヌスラト・ファテ・アリー・ハーンやアビタ・パルヴィーンなど、インド・パキスタンの有名アーティストがカバーしています。今回お伝えするのは、その有名なバージョンでもなく、歌でもありませんが、グワーティーの際に使われていたとされています。