4月 25, 2018 18:22 Asia/Tokyo
  • イスラムと自然環境
    イスラムと自然環境

前回は、イスラムが自然環境への接し方を人類に明示している宗教の1つであることについてお話しました。今回は、このテーマにスポットを当てていくことにいたしましょう。

今日、思想家の多くは、自然環境を救うには世界各国の社会に環境倫理を広めることが必須であるという結論に達しています。環境倫理の原則的な機能は、社会における倫理面での禁止事項を設定し、自然に対する活動に当たっての「侵されざる領域」を設けることです。宗教的な世界観や教示が個人的、社会的な行動を決定することから、環境面での危機の解消法は、宗教的な伝統に再度立ち返ることに求めるべきだと言えます。

アメリカ・プリンストン大学とスタンフォード大学で教鞭をとった中世史の専門家、タウンゼント・ホワイト教授は1967年、科学雑誌サイエンスに自然環境と宗教の関係に関する論説を発表しました。彼は、キリスト教とユダヤ教という2つの宗教が環境破壊を助長する下地を作ったという結論を出しており、その理由として、これらの宗教では神が全てのものを人類のために創造し、人類の環境利用権は無限大であると教えられていることを指摘しています。

ホワイト教授に続いて、ケイト・トーマス教授が1983年にイギリスである著作を発表しました。それは、イスラムの聖典コーランの一部の節が、キリスト教と全く同じ見解を有している、というものです。彼女はまた、自然界の全ては人間のために造られ、動植物には知性や法的な価値観が存在しないとしています。

トーマス教授が論拠とするコーランの節は、第14章、イブラヒーム章、「アブラハム」第32節であり、それには次のように述べられています。

”神は、諸天と大地を創造され、天から雨を降らせ、これによって果実を実らせてあなた方にお恵みになる方である。また、あなた方に船の舵取りを委ね、神の命令によって海上を航行させる。また、あなた方のために河川を置かれた”

自然環境について考える

 

イスラム教徒の思想家の見解では、このイギリス人の大学教授が引用したコーランの節では、人間を最高の創造物としているものの、このことは人間が自然界の主であることを意味しないということです。コーランやイスラム哲学の見解では、自然界の最終目的は人間とされているものの、それは自然界が人間の権限に委ねられているという意味ではないとされています。

コーランの節によれば、神は人間に必要な力や可能性を与え、地球を繁栄させることを義務付けています。この点について、コーラン第11章、フード章「フード」、第16節には次のように述べられています。

”そのお方こそは、あなた方を大地からお造りになり、地上の繁栄と発展をあなた方に委ねられた神である”

コーランは、神があなた方に大地を授与したとは述べておらず、あらゆる点から便宜手段は用意できているが、あなた方人間が自らの努力と労働により、地球を繁栄させるべきである、ということを指摘しています。

 

コーランの節を紐解いてみると、自然環境の全ての要素が重要性を有しているという事実が示されています。コーランは、天と地を、神の偉大さのシンボルと見なしており、このことはコーラン第29章、アンキャブート章、「蜘蛛」第44節で次のように述べられています。

”神は、諸天と大地を真理によって創造された。誠に、その中には信仰する人々へのしるしが完全に現れている”

神は、大地に植物が生えることも自らのしるしの1つであるとしており、コーラン第26章、シュアラー章、「詩人」第7節と第8節において次のように述べています。

”彼らは、あの大地を見なかったのか?我らが如何に、様々な植物を育ててきたかを。そしてこれは、神の存在の明白なしるしであるが、彼らの多くは信仰心に目覚めなかったのだ”

また、この点については、コーラン第16章、アン・ナフル章「蜜蜂」、第67節にも次のように述べられています。

”また、ナツメヤシや葡萄の果実を実らせて、あなた方はそれから酔わせるものや良質の食料を得る。これらもまた、思慮深い知性ある人々にとっては、神の偉大さのしるしの1つである”

このように、コーランの世界観では、自然や自然環境が神のしるしの実例とされています。自然とはまさに、崇高なる神の具現であり、人間は自然界に神の存在を感じ取るのです。

自然環境について考える

 

コーランは、天空や星、太陽、月、雲、雨、風、海洋における船舶の航行、動植物、そして最終的には人間の身の回りに見られる具体的な全ての事象をも、熟考すべきテーマであるとしています。その例として、コーラン第3章、アル・イムラーン章、「イムラーン家」第191節では、次のように述べられています。

”そして、彼らは天地創造の神秘について考え、その中に神の節や伝統、真理を見出すのである”

自然について考えることで得られる最も重要な真理の1つは、大自然が生物の出現と存続のために創造されたことです。このため、自然界の生態系のバランスを維持することは、生物にとって最も基本的な権利の1つといえます。

自然とは、生物の存続といった神のなせる技や、生物の存続における自然の活用の必要性を物語るしるしです。神のなせる技により、人間を含めた全ての生物のために自然の恩恵にあずかる権利や生存権が得られます。

このため、自然は公平な創造システムの下で大小の創造物に生命を与えている神の力や叡智を具体的に示すものと言えます。神によるこの創造世界のシステムは、聖なる事象と見なされ、人間は地上における自らの活動のすべてを、このシステムに合わせる必要があります。ですから、水や土壌、空気といった自然的な要素を汚染したり、自然環境を破壊することは、神の言葉や聖なる創造システムを侵害することになるのです。

コーラン

 

コーランの節によれば、自然や自然界の存在物は人間にとって、神の恩恵の証明とされています。

神は、数々の恩恵を人間に与え、人間がこれに感謝した上でこれを望ましい方法で活用するように定めています。人間が、神の恩恵を適切な方法で活用すれば、多くの恩恵がそのまま継続され、さらには恩恵の正しい利用に対する報酬が追加されます。これについて、コーラン第14章イブラヒーム章「アブラハム」、第7節では次のように述べられています。

”しかし、自ら自然環境を利用して、これを汚染、或いは破壊したならば、その人は偉大なる恩恵を冒涜したことになり、その結果現世において、こうした神の恩恵を剥奪されることになる”

神の恩恵を剥奪されることは、実際には神の掟や神との約束を破ったり、欲望にかられるといった内面的な問題の結果です。これについて、コーラン第8章、アンファール章、「戦利品」第53節では次のように述べられています。

”神がある民に与えられた恩恵は、彼らが悪いものに変えない限り、決してこれを変化させることはない” 

このため、自然環境の危機は人間自身、即ち人間の内面や倫理面での危機、さらには自然環境やそのほかの恩恵に対する彼らの違法な行動が元凶となっているといえます。 また、コーラン第16章、アン・ナフル章「蜜蜂」、第112節にも次のように述べられています。

”彼らが神の恩恵を信じていなかったがために、神は彼らが犯していた罪の報いとして、飢餓と恐れを味わわせた”

これに対し、神の掟や節度をわきまえ、天啓の教えに従って人間性や自然環境にそった原則を守ることで、自然環境の発展とともに、人間はこれを最大限に利用できるようになります。また、正しい道を守ることで、豊富な水資源を利用できることにもつながります。これについて、コーラン第72章、アル・ジン章、「ジン」第16節では次のように述べられています。

”もし、彼らが正しい道を守るならば、我らは必ず豊かな雨というすべての恩恵を、彼らに降り注ぐだろう” 

また、神の命令に沿って行動し信仰心を持つことで、天地における恩恵にあずかれることになります。これについて、コーラン第5章、アル・マーイダ章「食卓」、第66節では次のように述べられています。

”もし、彼らが律法と福音、そして主から彼らに下されたものを実行するならば、彼らの上からも足元からも、必ず豊かな糧が与えられるであろう”

イスラムと自然環境

 

コーランの節からは、人間と自然環境の間に直接的な関係があることが分かります。即ち、人間の好ましくない行動により、陸地と海洋の双方に問題が起こるのです。これについて、コーラン第30章、ルーム章「ローマ」、第41節には次のように述べられています。

”人々の手が稼いだことのために、既に陸や海に荒廃が現れている。これは、神が彼らの行った事の一部を思い知らせるためである。おそらく、彼らは帰るであろう” 

一方で、人間の倫理に沿った行動により、天地における恩恵の扉が、人間に対して開かれることになります。これについて、コーラン第7章、アル・アアラーフ章「高壁」第96節では次のように述べられています。

”これらの町や村の人々が信仰心に目覚め、畏敬の念を抱いたならば、我らは必ずや天と地の祝福の扉を、彼らのために開いたであろう” このため、人間が倫理的な原則を守るということを含めた教えは、自然環境の発展と拡大にとって価値ある結果をもたらすと思われます。

 

自然環境の重要性は、コーランの節において強調されているのみならず、イスラムの預言者ムハンマドとその一門の伝承にも見られます。