6月 04, 2018 20:31 Asia/Tokyo
  • コーラン第55章ラフマン章仁慈者
    コーラン第55章ラフマン章仁慈者

今回も前回に引き続き、コーラン第55章ラフマン章仁慈者を見ていきましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

ラフマン章の第14節と15節では、神の偉大な力の別のしるしを説明する中で、人間とジン・精霊の創造について解説されています。

 

「神は陶土のような乾いた土から人間を創造した」

 

コーランはさまざまな節の中で、人間の創造に関していろいろな表現を用いています。こうしたコーランの表現は、人間が最初は土で、それが水と合わせられて臭い泥となり、粘着質を帯びた後、乾いた土となったことを示しています。

 

明らかに、こうした表現は、人間が取るに足らない価値のないものから創られたこと、しかし偉大なる神が、そのような価値のないものから、人間という価値のある存在を創ったことを示しています。また、人間の真の価値は、人間の中に吹き込まれた神の魂にあることにも言及しています。

 

ラフマン章の第15節では、ジン・精霊の創造について述べられています。

 

「神はジンを炎から創造した」

 

人間は水と土から創られましたがジンは風と火から創られています。このように2つのものから創造されていることは、人間とジンの間に大きな違いが生まれる要因となっています。

 

コーラン第55章ラフマン章仁慈者

 

ラフマン章の第17節は、日の出と日の入りについて触れています。

「彼は2つの東の主であり、2つの西の主である」

 

太陽は一年を通して、毎日ある場所から顔を出し、ある場所に沈み、一年の日数の分だけ、東と西が存在します。しかし、北回帰線と南回帰線に注目すると、実際、太陽には2つの東と2つの西があり、他の場所は、その2つの間にあります。多くの恩恵に溢れた四季が生まれるきっかけとなる、このような体系は、地球と月、太陽の決まった動きと創造の正確な秩序を示しています。

 

これについて、コーランの第70章アル・マアーレジ章登る道の第40節には、「東と西の主に誓って」とあります。ここでは、一年を通した太陽のすべての東と西、つまり日の出と日の入りの地点を指していますが、ラフマン章の第17節は、北回帰線と南回帰線の2つの地点に触れています。

 

ラフマン章の第26節は、人間のはかなさについて触れています。27節と合わせて見てみましょう。エ「地上にあるものは誰でも消滅し、唯一、汝の主の偉大で尊い本質のみが残る」

 

コーラン解釈者によれば、ここでいう消滅とは、絶対的なものではなく、現世から永遠の世界への入り口、永遠のすみかに到達するために通るべき道を指しています。この節は実際、現世は永遠の場所ではなく、決して現世に執着してはならないことを思い起こさせています。

 

ラフマン章の第27節は、神の栄光と偉大な性質に触れています。神の清らかな性質は、あらゆる欠陥や欠点を免れています。このような性質を持つ神のみが永遠に残り、残りの存在は皆、滅びることになるのです。

 

ラフマン章の第29節を見て見ましょう。

 

「天と地にあるすべてのものは、神に求める。神は日々、何かをなされる」

 

世界の終わりに、神の清らかな性質以外、万物は滅びます。今も、神を前にしては全ての存在が滅びるものであり、神以外のすべてのものの存続は、神の意志によります。そのため、一瞬でも万物から神の恩寵が奪われれば、全ては滅びます。このような中で、天と地にあるすべてのものが自分のニーズを求める対象が、神以外に存在するでしょうか?

 

この後、コーランの節はこのように述べています。「神は日々、何かをされる」 そう、神の創造は永遠に続き、常に創造物のニーズに応えています。神は世界を創造し、それをそのままに放置するのではなく、常に世界のさまざまな事柄が最もよい形になるよう保っています。

 

ラフマン章の第31節から先は、最後の審判と、復活の別の特徴について触れ、それは罪を犯した人にとっての警告であると同時に、敬虔な人々を目覚めさせ、希望を与え、意識を持たせるためのものとなっています。最後の審判の日、世界の創造主である神は、人間とジンの全ての言動や目的を綿密に調査し、彼らに適した報奨、あるいは懲罰を定めます。この問題を信じることは、私たちの現世での生活や、現世の恩恵の利用の仕方に影響を及ぼします。

 

この章の最後の審判に関する節を見てみると、この日、現在のシステムが完全に崩れ、世界中で恐ろしい出来事が起こることが分かります。惑星や天地が大きく変化し、想像もつかないようなことが起こります。ラフマン章の第37節には次のようにあります。

「天が裂け、溶けた油のように赤色になるとき」

 

このような恐ろしい出来事が最後の審判で起こることが明らかにされているのは、罪を犯した人や敬虔な人への警告であると同時に、神からの慈悲でもあります。そのため、「そこで、あなたたちの主の恩恵を否定するのは誰か?」と繰り返されています。その日、罪を犯した人はその表情によって見分けられます。それは、人間の考え方や行動が顔に現れることを意味します。その後、罪を犯した人は屈辱にまみれ、前髪と足をつかまれて地獄へと投げ落とされます。その地獄とは、罪を犯した人が常に否定していたものです。実際、天国と地獄を否定し、最後の審判を信じないことは、人間が地獄の者となる要因のひとつです。彼らは炎と熱湯の間を動くのです。

 

 

ラフマン章の第46節から先は、天国の人々について述べ、天国の大きな恩恵の一部を挙げています。それによって、地獄の人々の厳しく痛ましい懲罰と比較し、それぞれの重要性がより明らかになるようにしています。

 

「また、神の地位を恐れる者には2つの楽園がある」

 

明らかに、神は、天国の数多くの庭園を善良な僕たちに与え、彼らはそこを行き来します。その後、この2つの楽園についてこのように説明しています。「その2つの楽園には数多くの恩恵と緑の生い茂った木々がある。その2つの楽園には、常に2つの泉が湧き出ている」

 

それから天国の果実について述べられています。「その2つの楽園には、あらゆる果実から2つの種類が存在する」 楽園の果実は、様々な種類があり、それぞれが別のものよりも優れたものとなっています。楽園の人々は、錦と絹のじゅうたんの上に寄りかかっています。人間は安全な環境で完全にリラックスするときに寄りかかります。このような表現は、天国の人々が精神的に完全に安定した状態にあることを示しています。

 

明らかに、来世での神の恩恵は、私たちの言葉で表現しつくせるものではありません。このような表現は、私たちの理解力の範囲で、無限の恩恵を理解できるようにするためものです。その2つの天国の熟した果実は手の届くところにあり、苦労してもぎとる必要はありません。天国の清らかな配偶者もまた、神の恩恵のひとつとなっています。

 

ラフマン章の第56節を見てみましょう。

 

「その天国の宮殿には女性たちがおり、自分の配偶者以外の者たちには目もくれない。それまで、いかなる人間もジンも手を触れたことがない」

 

このように、彼女たちはあらゆる点から清らかで貞節な人々です。天国の女性たちは、自分の夫のみに愛情を注ぎます。夫のことだけを考え、それ以外の人には興味を示さないのは、最大の利点のひとつです。彼女たちは真珠やルビーのように美しい存在です。コーランはこのような表現によって、彼女たちの優美さを伝えようとしています。ラフマン章の第60節は、「善いことへの報奨が、善いこと以外にあるだろうか?」としています。現世で善い行いをした人々は、神のすばらしい報奨以外に何かを期待するでしょうか?

 

ラフマン章はここから最後まで、天国と天国の恩恵について語っています。緑豊かで美しい庭園、泉、ナツメヤシやザクロなど、さまざまな種類の果物、美しい女性たち、天幕にいる天女、貞節でいかなる人間やジンにも触れられたことのない女性たち。そして天国の人々は、最も美しく良質の緑色の布で覆われた玉座に寄りかかっています。

 

ラフマン章は、神の慈悲と神の恩恵を述べることで始まり、神の偉大さと栄光を述べ、神をたたえることで終わっています。(了)