6月 23, 2018 20:00 Asia/Tokyo
  • 西洋哲学に見る女性の立ち位置
    西洋哲学に見る女性の立ち位置

今回は、西洋哲学において女性がどのように位置づけられているかについて考えることにいたしましょう。

女性は、人間社会の半分を占めており、女性の人格や行動、文化、思想が人間社会の形成に重要な役割を果たしていることは、疑いのない事実です。人類の歴史において、「女性の存在」というテーマ、女性の人格や威信、女性が人類の存続を左右する度合い、男性との結びつき、そして男性と比較しての女性の立場といった事柄は、常に議論の焦点となってきました。また、西洋哲学においてもこれらの論点が古代から現代に至るまで提起されてきています。

西洋の世界は、女性の解放や女性の権利の擁護などといった欺瞞的なスローガンを謳い文句に、世界の諸国民の間で正義の要求や圧制の排斥を主張しています。しかし、西洋諸国の歴史の変遷をたどると、女性に最も過酷な圧制がしかれていたのは、そうしたヨーロッパ諸国であったことが分かります。西洋哲学の様々な見解を紐解くと、この事が明確に見て取れます。

アリストテレスは、女性というテーマを提唱した初の哲学者とされています。彼は、「女性は、下劣な二流のジェンダーであり、一流のジェンダーとしてより優れている男性に支配されるのが当然である」という見解を持っていました。

 

アリストテレスの見解では、自然は1つの概念や目的のみのために何かを創造し、この点に関して女性の義務は子供を生むこと、すなわち生殖だとされています。また、アリストテレスは女性が子供を生む事に強い関心を持っており、このことが、成熟した創造物の最も自然な機能であるとみなしていました。彼は、常に男性を女性より優れたジェンダーであると考えていたのです。

 

 

アリストテレスの思想体系においては、女性は下劣で矛盾を抱え、有効性がないといった概念の指標とされています。もう少し詳しく説明すると、男性は全ての段階においてより優位で能動的な役割を果たすのに対し、女性は受動的な役割を担うことになります。さらに、生きる事や人生に息吹を吹き込むのは男性であり、それにより女性のものとされる体が蘇生するとされています。即ち、女性は肉体であり、何にも勝る精神である男性によって存続するということになります。アリストテレスは、最終的に自らの持論を次のように総括しています。

「1人の女性は、子供を生むという役割を持つ事からして、自身では子供を埋めない1人の男性と同等である。それは、あらゆる場合において、女性が欠陥を持つからである。男性が男性であるのは、特別な能力を持つからである。これに対し、女性はこうした特別な能力がない故に女性なのである」

 

アリストテレスの見解は、その後の哲学者にも大きな影響を及ぼしています。そうした人物の1人が、18世紀の思想家ジャン・ジャック・ルソーであり、彼は女性が教育によって高い地位に就ける事を信じていませんでした。ルソーは、女性が持つ思想や知性、思考力が教育や訓練によって高められるものだとは考えておらず、それらを生まれつきのものと見なしていたのです。

ルソーの見解では、女性は自らの置かれた社会的な状況に自然に支配され、こうした社会生活が女性を支配していると考えられています。即ち、ルソーは、女性が男性のために創造されており、女性自らが自分を男性と同等ではない事を認めている、と考えていたのです。ルソーはこの点について、その著作『エミール』において次のように述べています。

「女性の知性は経験的なものである。この知性により、女性は真実を見出して理解する事ができなくなっているが、それとは逆に彼女らは自らの経験により結論を得た事柄を理解するよう導かれる。女性は、男性と同じようには原則や法規範の全体像を理解できないが、その詳細についてはよりよく理解できる」

ルソーはまた、『エミール』において次のように明言しています。

「学問における全体的な法則、純粋な研究や探求、明確な学説は、明らかに女性の思考の範囲内に収まるものではない。女性の責務は、法則の全体像を男性を介して見出し、受けいれ、それらを活用する事である」

総括すると、ルソーの著作において重要な点は、女性が精神的、身体的な点の双方において男性に服従し、男性の欲求に応じて行動すべきものである、ということだと言えます。

 

 

それではここで、イランの女性問題の専門家、アーホンダーン博士の話をお聞きください。

「西洋の著名な哲学者の見解を紐解くと、原則的に女性が男性よりも低く位置づけられている事がわかる。こうした差別的な捉え方がなされている原因は、単にその人が女性であることによる。こうした見解により、西洋社会では女性に対する圧制や暴虐がはびこっている」

「一方で、1400年も前に出現したイスラム教の見解では、女性と男性が互いを補完し合って完全な存在となる上で、相互に効果的な役割を果たしており、実際に男女が相互を補い合っている。男性も女性も人間として、人間性の原則という点で共通しており、いずれも神の前において価値ある重要な存在とされている。また、同じ度合いの人権や個人的、社会的な権利の恩恵を享受している」

 

17世紀、18世紀におけるそのほかの西洋哲学の思想においても、女性は多かれ少なかれ一段低い存在とされています。ドイツの哲学者カントも、自らの著作において女性に対するこうした見解を提示しています。

カントは、自らが提示する倫理的な原則が、男性のみならず全人類、そしてこの種の論理的な創造物の全てを含むものでなければならない、としながらも、政治哲学においては、女性を男性と同等に位置づけるのではなく、「女性は恥ずべき市民としてしか計算に入れられない」と強調しています。カントによるこのような侮辱的で好ましくない表明ではさらに、「女性に対しては性欲や情欲に基づき認識し、男性に対しては知性に基づいて認識すべきだ」とされています。

このような捉え方は、17世紀から19世紀の思想家の多くの作品において見られます。古代ギリシャのソクラテスに始まり、19世紀末から20世紀にかけてのドイツのハイデッカーにいたるまで、哲学者の女性に対する捉え方はある種の邪推や躊躇と抱き合わせになっています。そして、彼らの見解には、女性も人間として一連の権利を持ち、一人の人間・市民として尊重される、という表現は一切出てきません。

 

西側諸国は、これらの時代を通して常に、個人的な自由や倫理に基づく価値観を謳っていますが、それが陰に陽に意図するところは男性であり、女性は相変わらず注目されず忘れ去られた存在とされ、その存在の有り難味を理解されるのではなく、圧力のもとで取るに足らない存在として位置づけられています。

ヨーロッパの思想家は19世紀末以降、資本主義体制が女性を労働力として必要とする時代になってようやく、女性の権利を認めた形となりました。アメリカの歴史家で哲学者のウィル・デュラントは、自らの著作の1つにおいてこの事実を指摘し、次のように述べています。

「女性の解放や自由は、産業革命の副産物である。産業革命により、まず女性も産業界に入る事になった。女性は、より人権コストが低くて済む労働力だったのであり、資本家はコストがかかり、反抗的な男性よりも女性のほうが好ましいと考えたのである」

 

こうした捉え方により、西側諸国では女性の人権問題というテーマが次第に、現代哲学に入ってきました。こうした哲学的な思想における女性の位置づけについては、次回また詳しくお話することにいたしましょう。

次回もどうぞ、お楽しみに。

 

 

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