6月 30, 2018 17:44 Asia/Tokyo
  • 自負心や自信
    自負心や自信

前回は、精神面での安全についてお話し、精神面での安全性を高めることで、魂の健康や安らぎ、生きる事への喜びにつながることについて説明しました。今回はその続きとして、魂の健康を増進するためのもう1つの指標となる、自負心や自信について考える事にいたしましょう。

自負心や自信とは、自分自身の特徴を認識し、これを認めて拠り所とすることを意味します。私たちは、自分が持っているものを、大切な資本としてとらえ、自分には神から大きな進歩や成長の可能性や才能が与えられ、神を拠り所として現世と来世での幸福や健康に向かって歩んでいけることに気づく必要があります。

人間は、自負心や自信があってこそ人生の紆余曲折を乗り越え、逆境などの重荷に耐え抜き、最高のレベルにまで進歩できるものです。自信がない人は、ストレスや精神的なプレッシャーに耐えられず、常に失敗や敗北を予想して行動します。このため、彼らは生活上の困難から逃避し、時にはアルコールや麻薬に手を出すこともあります。このような人は、魂の健康は得られず、魂のレベルを高めることはできません。

魂の健康を求める人は、自分にどのような能力や才能があるかを見出す必要があります。すなわち、秘められた才能を引き出して活用し、自分の持っているものを信じて、足りないものや弱点、失敗を補うことです。こうした自負心により、無力感や失望感が吹き払われ、魂の健康から生まれる喜びや情熱が得られます。

 

自負心や自信

 

自負心や自信は、2つの要素で構成されています。1つは、物事を考え、学習したり、適切に判断して選択する能力を信じることです。そして、2つめは、すぐにくじけることなく、困難や逆境に耐え抜き、人生に沸き起こる困難に屈しないことを意味します。

自負心のある人は、人格的に高潔な精神性や、強い精神力を持っており、何かに影響されたり、屈したりすることはありません。また、人間としてのアイデンティティを、腐敗や悪事といった破壊的なダメージから守ります。そして、これは人間的な価値観に対するその人の認識や、魂の位置づけの高さによって、初めて得られるものなのです。

ここで注目すべきことは、イスラムの聖典コーランには、第35章、ファーテル章「創造者」第10節などに、自負心は神のみのものであるという記述がなされていることです。また、第63章、ムナーフェグーン章、「似非信者たち」第8節には、次のように述べられています。

“自負心は、神とその預言者、そして信徒たちに特有のものである” 

神を拠り所とする信者たちは、神をよりどころにすることで、自負心を持つようになります。このため、イスラムで定められた宗教行為、社会、倫理、モラルに関連した計画はすべて、自負心や自尊心に基づいたものとなっています。

人間は、ありのままの自分を認識すれば、劣等感を感じる事はなく、自分の持つかけがえのない宝をほかのものと交換することはありません。西暦680年にイラクのカルバラで起こったアーシュラーの英雄伝において、この自負心は最高潮に達します。シーア派3代目イマーム・ホサインは、劣等感は自分たちからは遠く離れている、と述べています。カルバラでのこの出来事には、イマーム・ホサインの自負心の重要性、そしてこの偉人とその教友が成し遂げた自己献身との関係が見て取れます。

 

自負心や自信は、崇高なる神を信じてこれを拠り所とし、神に物事をゆだねた結果といえます。人間は、自負心により無限大な神の力とつながり、しっかりした人格や物事の決断における真剣さは、こうしたつながりにより得られます。しかし、中にはこうした自負心を、誤った自信とはき違える人もいます。

こうした誤った自信は、次のように2通りに解釈できます。1つは、自分の内面的、個人的な欲求が何にも勝るとしてこれに自信を持つことであり、これはある種の利己主義で、好ましくない非難されるべき自信だといえます。このような誤った自信が、偽りの人格を形成することは言うまでもありません。

また、「自分が正しいと思っていることこそ正しい、だから私の考えどおりになるべきだ」とする考え方や、「自分の行く手をさえぎるものは何もない」と考える人は、自信過剰に陥り、自分のことしか見えなくなってしまっています。シーア派初代イマーム・アリーは、こうした誤った自信について次のように述べています。

“誤った自信を持つ人は、自分の息からも裏切られる”

次回もどうぞ、お楽しみに。

 

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