7月 09, 2018 20:34 Asia/Tokyo
  • 伝統工芸におけるトルコ石の使用
    伝統工芸におけるトルコ石の使用

今回は、イランのもっとも優美な伝統工芸、伝統工芸における宝石の使用についてお話しすることにいたしましょう。

トルコ石を使った指輪

宝石の研磨は、イランの装飾手工芸のひとつであり、長い歴史を有しています。宝石には、エメラルド、メノウ、アメシスト、トルコ石などがあり、これらはイランでは豊富に産出されています。これらの石は研磨され、金や銀の型にはめられた後、更なる価値を増し、指輪やネックレス、ブレスレット、イヤリングなどの装飾品に使われます。石は鉱山から採掘され、デザインが決められるとその形に削られます。

トルコ石の鉱山

 

宝石は、鉱物の一種であり、その一部の特性から、他の石よりも高価となっています。これらの石の多くは、鉱物が結晶化したものであり、良質で高価な鉱石を生じさせるためには、完全に適した環境でなければなりません。多くの地質学者は、ゆっくりと冷えて結晶化した溶解物の内部に宝石が生じる源があると考えています。研究者によれば、このプロセスは数ヶ月、あるいは数週間で起こりうるということです。たとえば、ダイヤモンドは通常、地中深くの、高い温度と圧力の下で結晶化されます。

トルコ石

 

宝石や装飾品の使用の歴史は、おおよそ人類が出現したときに遡り、7000年の歴史があると言われています。かつて宝石は裕福であること、特権階級のしるしであり、昔の為政者は、高価な金属で作られた装飾品を装飾するために、いろいろな色の高価な石を使用していました。女性による美しい色のついた石、さらには貝殻の使用は、魔術や医学的な特性を有すると考えられていたことに加えて、賞賛や注目をひきつけるものとされていました。人々はこれらの宝石を持っている人は悪魔や病気、その他の悪い出来事を遠ざけ、天使が健康や幸福を守ってくれるのだと信じていました。

فیروزه

トルコ石

 

19世紀の初頭まで、宝石は病気や肉体の不快感を癒すのに効果があると考えられていました。こうして人間は世界各地で、過去から現在まで、一部の石と未知の世界の間の超自然的な関係を信じており、それぞれの宝石を星に関連付け、月ごとに特定の星と宝石を設定していました。

 

今日、宝石は月や国のシンボル、装飾のために使用されている以上に、世界各地で長期的な投資や資金の後ろ盾として提示されています、宝石は実際、容積も小さく、他の資本よりインフレも少なく、現金としての価値が大幅に下がることもありません。さらに宝石の研磨とその輸出は、非石油系の輸出品の上位を占める品目のひとつとなっています。

 

宝石は、イランの歴史においても、常に多くの重要性を有してきました。宝石はイランで二つのカテゴリーに分けられます。一つは、真珠、珊瑚、琥珀、黒玉といった有機物で、もう一つはダイヤモンド、ルビー、トパーズといった鉱物です。後者は無機物で、非常に高価なものです。こうした中、それらよりは価値の低い鉱物も世界各地に存在し、宝石のような特徴はないものの、美しさゆえに注目され、それらは研磨された後に価値が出ます。

 

古代イランでは、宝石は美しさに加えて、個人の社会的な地位や由緒ある家柄を示すものでした。イラン人は装飾や贅沢趣向に多くの重要性を見出していたことから、宝石を衣服の装飾や髪飾り、器の製造に使用していました。こうした見地から、イラン人は歴史において、装飾の特別な様式やデザインを有していました。

シャフレ・スーフテ「焼失した町」

 

イラン南東部のスィースターンにあるシャフレ・スーフテ「焼失した町」から見つかった宝石は、紀元前3000年の時点でイランにこの芸術が存在していたことを示すものです。これまでこの町の実際の名前は知られておらず、考古学者はこの町で大きな火災が二つ生じ、その焼け跡がまだ残っていることから、その名前を「焼失した町」と呼んでいます。

 

シャフレ・スーフテの住民は職人であり、数千年間墓の中に眠っていた人骨に対して行われた調査から、きつい仕事のために、彼らの多くが若くして腰や首の骨が癒着していることをわかっています。しかしながら、この町の勤勉の人々は、優美な精神を持ち、芸術を愛しており、彼らが作ったものとして残っている、特に女性用の装飾品は、これらの人々が高価な石を採掘し、それらを磨き、価値ある人工物に作り上げることに精通していたことを示しています。

 

シャフレ・スーフテの発掘では、ラピスラズリと金でできた玉や首飾りが見つかっています。その当時の職人は、それらを作るために金の板を直径1ミリ以下の針金にし、双方の針金の作を相互につないで、ラピスラズリの破片をこれに接着しました。こうして美しい首飾りを作っていたのです。彼らは宝石を造る際には鉱物の結晶を、また衣服を作る際にも装飾品を用いていました。

 

シャフレ・スーフテでの考古学的な発掘では、一人の女性の墓が見つかっています。その中にはインド女性が着るサリーに似た衣服をまとった遺体が眠っており、その衣装は胸から下の部分が金属片や宝石で飾られていました。

 

紀元前1300年から300年までの間、イラン高原の住人は、銅でできた装飾品や色とりどりの玉飾りを使用していました。アケメネス朝時代には、さまざまな伝統の調和の結果、金や宝石を使った高い技術が広まっていました。この時代に作られた作品の多くには、ブレスレット、指輪、ボタン、玉、首飾りなどがあり、それらは宝石を使って装飾されていました。

宝石

 

サーサーン朝時代、金と宝石の芸術は、他の芸術と同様に繁栄を迎えました。この時代における印章の複雑さ、硬貨の質、冠の装飾品のめっき、銀製品に使用されていた技術、宝石の使用は驚くべきものです。

 

イスラム後、イランの芸術家たちは肖像画を禁ずるイスラム法の影響を受け、レリーフや宝石を使用した金銀線細工、エナメル細工を使用していました。イスラム後の20年間、デザイン、模様、色は、古典的な図案からとられていましたが、その後、イスラム教徒の芸術家の特徴と革新を伴ったイスラムのモデルが次第にすべての芸術の分野に現れ、イスラム芸術として世界に知られるようになりました。この芸術のデザインの基盤は、幾何学模様と、自然から取られた模様の融合で、装飾品や石の模様に最も美しい形で現れています。

 

12世紀から13世紀の間、イラン人が使用していたブレスレットは、金、銀、銅による金属箔で作られていました。三日月形の金のイヤリングは、線、リボン、渦巻きなどさまざまなデザインで作られていました。さらに金の首飾りは、さまざまな宝石で装飾されていました。この分野の職人は、次第に、金や銀、宝石の装飾品の上に文字を刻むようになり、それがその価値を増していました。

 

考古学者は、何かのシンボルや製作者のしるしが刻まれた装飾品を発掘しています。これらはときに手紙を封する際にも使用されていました。この他にも、14世紀以降に見つかった写本は、イランの宝石に関する情報についての有効な資料とみなされ、その挿絵にはこの芸術に関するものが見られます。