8月 04, 2018 20:29 Asia/Tokyo
  • 献身
    献身

前回は、魂の健康を高めるための宗教的な要素の1つとして、善良であることや良い行いをすることについてお話し、それから、この行動の実施に当たって、目的と行動の両方が正しいものである必要があることにも触れました。

今回は、魂の健康におけるもう1つのプラスの要素として、献身という概念についてお話することにいたしましょう。

 

献身とは、自分よりも他人を優先し、自分を犠牲にする事を意味します。自分が必要としているものからあえて心を断ち切り、自分以上にそれを必要としている人に与えたときに、それは献身とみなされます。例えば、生活面での楽しみや自分の時間や財産といったものを、直接、あるいは間接的な利益として他人に譲る事が挙げられます。

 

 

献身においては、欲望や期待は存在せず、それに対する見返りを求めていません。このため、献身は、単なる親切心や寛大さ、他人への支援ではなく、自分を犠牲にすることです。

献身的な人は、自分の意志で完全に自発的に、他人の幸せを増やし、自分自身のバランスを維持して魂の健康を獲得するために、自らをささげるという行為に出ます。この種の健康に恵まれれば、心からの満足感や安らぎ、希望、情愛ややさしさへの傾倒が最高潮に達します。

 物質主義的な社会においては、個人的な損得が優先されるため、本当の意味での献身に遭遇する事はそれほどありません。しかし、神を中心とする社会では、精神的な価値観が重視され、人々は神と取り引きをします。このような社会では、人々は、魂の健康を増進して好ましい状態に至るためには、言動や心の持ち方を、神のためのものに調整します。このため、実際に行われた献身的な行いはすべて、純粋に神のためのものとみなされます。

 

これまでの長い歴史を通して、宗教信仰という道において、献身的な行動は数多く行われてきました。この種の献身において重要な点は、いずれの宗教においても、聖なる死としての殉教が、現世での命が終わった後の、来世における永遠の命に、そして殉教する事がある種の名誉であるという考え方からくるものだということです。

歴史における献身や殉教の最も典型的な例として、西暦680年に当たるイスラム暦61年のモハッラム月10日に、シーア派3代目イマーム・ホサインが、当時の支配政権ウマイヤ朝のヤズィードの軍との宗教戦争という重要な場面でとった行動が挙げられます。戦力的にみて不平等なこの戦争では、1人の人間としてなしうる最大限の献身が行われました。メッカで有していた安全や生活、財産を捨てること、家族を危険に晒すこと、自分の子供や親戚を失ったことが、この戦いにおける献身でした。

親にとって、子供に先立たれることほど、悲しい死はありません。それも、信条を守るためだけに、自分の大切な人々の命を捧げなければならなかったのです。これは宗教的な信仰に基づいて行われた、最高の形の献身です。

 

歴史上最も典型的な献身の例としてのイマーム・ホサイン

 

 

 

花束を誰かにプレゼントするその手には、花の香りがつきます。心理学的な見解によれば、献身的な行動は、その人を成長させ、何ものにも変えられない満足感を生みます。こうした状態においてこそ、魂の健康のレベルが最高に達するのです。

献身とは、その人に喜びや自分が他人の役に立っているという感情をよみがえらせます。また、この上ない親しみを持って、恩を着せることなく他人に尽くすことを身に着けた人は、人生の奥深さや、本当の成功を理解することになります。本当の意味での英雄とは、他人の生活を変えるような影響を及ぼす人物です。このため、本当に献身的な人とは、最も大きな逆境においても、勇敢に他人を助けることのできる人です。

 

それでは最後に、献身の目的にも注目する必要があることについてお話しましょう。

人間は時として、他人の注目をひきつけたい、他人の愛情を得たいと考えることがあります。そうした人は、他人の愛情や満足、承認を得るために、あらゆる手段に訴えます。彼らの行動は、表面的には献身に似ているかもしれません。しかしそれは、献身を神に近づくためのものとして捉える、真の献身的な人々とは異なり、他人の承認や満足を目的としています。また、常にその行動に欠点があるため、他人の満足を100%得られるわけでもありません。時には、他人に何かをしたことに対して怒りを感じることさえあります。これに対し、本当の意味での献身は、それを行った人に心からの満足を与え、魂の健康を得ることにつながるのです

 

 

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