8月 18, 2018 19:39 Asia/Tokyo

コーラン第28章 アル・ゲサス章 物語り 第51節~第55節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第51節

まことに我々は、[コーランの節の]言葉を次々に彼らにもたらした。恐らく彼らは訓戒を受け入れるだろう。」 (28 :51)

فَانْظُرْ كَيْفَ كَانَ عَاقِبَةُ مَكْرِهِمْ أَنَّا دَمَّرْنَاهُمْ وَقَوْمَهُمْ أَجْمَعِينَ (51)

 

第52節

これ以前に我々が書物をもたらした人々、彼らはこれ[コーラン]を信仰している」 (28:52)

فَتِلْكَ بُيُوتُهُمْ خَاوِيَةً بِمَا ظَلَمُوا إِنَّ فِي ذَلِكَ لَآَيَةً لِقَوْممٍ يَعْلَمُونَ (52)

 

この2つの節はまず、多神教徒の頑なさと不信心に触れ、次のように語っています。「我々はコーランの節を少しずつ、だが次々に下した。そうして多神教徒の心に浸透し、彼らに影響を及ぼすように。だが彼らは訓戒を受けず、真理の言葉を受け入れなかった。一方で、別の預言者と別の書物を信じた一部の啓典の民は、イスラムの預言者が本物であることを悟ったとき、彼に信仰を寄せ、彼に従った」 例えば、歴史的な伝承には、次のようにあります。エチオピアに住む一部の司祭たちが、この国の王、ナジャーシーの提案により、イスラムの預言者ムハンマドがもたらした宗教を調べ、それを知ろうと、メッカにやって来ました。彼らは神の預言者ムハンマドの心地よい言葉を聞き、彼に信仰を寄せました。そして彼ら自身が、イスラム教の伝道師になったのです。

 

第51節~第52節の教え

•           教育は、一歩一歩施されるものであり、それも訓戒や導きを利用したものであって、強制的なものではあってはなりません。

•           天啓の書物と宗教の指導者たちは、一つの言葉、目的を追求しています。

•           真の啓典の民とは、イスラムの預言者とその教えを知った後、それに信仰を寄せ、自分の宗教や信条を頑なに信じたりはしません。

 

第53節

コーランが]彼らに読まれたとき、彼らは言う。『私たちはそれを信じる。これは真理であり、私たちの主からのもので、私たちはこれ以前にも服従していた』と。」(28 : 53)

وَأَنْجَيْنَا الَّذِينَ آَمَنُوا وَكَانُوا يَتَّقُونَ (53)

 

第54節

彼らは、[真理を守る上で]耐え忍んだために、2度、報奨を与えられ、悪を善で退け、我々が彼らの糧としたものを施す」 (28 :54)

وَلُوطًا إِذْ قَالَ لِقَوْمِهِ أَتَأْتُونَ الْفَاحِشَةَ وَأَنْتُمْ تُبْصِرُونَ (54)

 

前の節に続き、この2つの節はこのように語っています。「預言者に信仰を寄せたその啓典の民の集団は、心から服従し、真理に対して謙虚である。預言者がコーランの節を彼らに読み上げるとき、彼らは言う。『私たちはそれを神からのものと考え、それに信仰を寄せます』と。これ以前にも、自分の預言者に服従し、信仰していたように」

コーランは次のように語っています。「そのため彼らは、2度、報奨を受け取る。一度は、以前の預言者と啓典に信仰を寄せたために。そしてもう一度は、イスラムの預言者とその啓典に信仰を寄せたためである」

 

この後、神はこの清らかな心を持った敬虔な人々に次のように勧告しています。「彼らは悪に善で応じる。醜い言葉に対しては良い言葉で、醜い行いに対しては忍耐で、また厳しく冷たい態度に対しては愛情を示す。彼らはよく施し、貧しく恵まれない人々に配慮し、他者のことを忘れたりはしない」

 

第53節~第54節の教え

•           真理を愛する人々は、真理を追い求めます。どのような人種の出身のどのような人物が、どのような言語で真理の言葉を語ろうと、彼らにとって問題ではありません。問題なのは、真理自体です。それが彼らにとって重要なことです。そのため、誰でも真理を語ったのであれば、それを受け入れなければなりません。

•           真理を受け入れるには、様々な問題や反対に耐え忍ぶことです。

•           他者との付き合いや社会的な関係において、原則は寛容さにあります。とはいえ、それよりも高い段階にあるのは、私たちに悪い態度を取った人に対して、良いことをすることです。

 

第55節

また、たわごとを耳にしたとき、それに背を向け、[無意味なことを言う人々に対して]こう言う。『私たちには私たちの行いがあり、あなた方にはあなた方の行いがある。あなた方に平安あれ。私たちは無知な人々に用はない』」 (28 :55)

أَئِنَّكُمْ لَتَأْتُونَ الرِّجَالَ شَهْوَةً مِنْ دُونِ النِّسَاءِ بَلْ أَنْتُمْ قَوْمٌ تَجْهَلُونَ (55)

 

前の節に続き、この節は、他人の醜い言動に対する忍耐の例として、次のように語っています。「本当に敬虔な人間とは、醜い言葉やたわごとを耳にしたとき、それに対抗して醜い言葉を口にしたりはせずに、彼らに寛容に接し、平和的で敬意を持った態度により、このように言う。『もし私たちのやり方や行いが間違っているのなら、その結果は私たち自身に返ってくるのであって、あなたたちではない。もしあなたたちの行いが間違っていれば、その結果はあなたたち自身に帰るのであって、私たちに返るのではない。だからあなたたちに善を、私たちに平安を。私たちは無意味な行いを追求していない。もしあなたたちが私たちに醜い接し方をしても、私たちはそれに対抗して、醜い態度を取ったりはしないだろう』」

 

第55節の教え

•           神への信仰の条件は、たわごとや無意味で醜い言葉から遠ざかることです。人に向かって無意味な言葉を口にしたり、私たちを侮辱、嘲笑する人たちに同じように返すことではありません。真の敬虔な人間は、無意味な言葉を嫌います。

•           無意味な言葉を言うこと、耳にすること、そうした人と付き合うことを嫌うのは、好ましい性質であり、すべての啓示宗教はそれを賞賛しています。

•           私たちが悪を否定しても何も変わらないかもしれません。しかし、少なくともすべきなのは、悪や悪を行う人を嫌うことで、その人に、私たちはそのような醜い行いには同意しないということを理解させることです。