8月 24, 2018 18:11 Asia/Tokyo

コーラン第28章 アル・ゲサス章 物語り 第59節~第63節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

第59節

汝の主は、様々な都市を滅ぼす前に、その中心に預言者を遣わし、我々の節を彼らのために読ませてからでなければ、それらの町を滅ぼしたりはしなかった。我々は、その土地の人々が圧制者でない限り、町を滅ぼしたことはない」 (28 :59)

قُلِ الْحَمْدُ لِلَّهِ وَسَلَامٌ عَلَى عِبَادِهِ الَّذِينَ اصْطَفَى آَللَّهُ خَيْرٌ أَمَّا يُشْرِكُونَ (59)

 

前回の番組でお話ししたように、自分の現世での利益を守るために、信仰を受け入れようとしなかった人々に対し、神はこのように言いました。「あなたたちは、以前の民の廃墟をその目で見ただろう。彼らは現世に酔いしれて反抗心に走ったがゆえ、我々は彼らを滅ぼした」

 

この節は、歴史を通した神の掟として、次のように語っています。「世界の創造主である神は、人々のために預言者を遣わし、神の言葉を人々の耳に届けるまでは、彼らを滅ぼしたりはしない」 実際、神の懲罰の命令が下されるのは、人々が神の節を聞き、それを否定したときです。もし人々が預言者を目にし、神の啓示を聞いてもなお、神の使徒に対して抵抗し、彼とその教えに対して圧制的な態度を取ったとき、彼らは現世で責め苦を下され、滅ぼされるのです。

 

第59節の教え

•           神は、人々に最後通告を与えるまで、彼らに懲罰を下しません。

•           神の預言者たちを否定し、真理に抵抗することは大きな圧制です。神はそれに対して現世で返答します。

 

第60節

「あなた方に与えられたものは、現世の生活のための品々と装飾であり、神のもとにあるものはよりよく、長続きするものである。それなのにあなた方は考えないのか?」 (28 :60 )

أَمَّنْ خَلَقَ السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضَ وَأَنْزَلَ لَكُمْ مِنَ السَّمَاءِ مَاءً فَأَنْبَتْنَا بِهِ حَدَائِقَ ذَاتَ بَهْجَةٍ مَا كَانَ لَكُمْ أَنْ تُنْبِتُوا شَجَرَهَا أَءلَهٌ مَعَ اللَّهِ بَلْ هُمْ قَوْمٌ يَعْدِلُونَ (60)

 

第61節

我々が良い約束を与え、それを見る者は、現世の生活の品々を与えられ、その後、最後の審判で[責め苦のために]呼ばれる者と同じであるだろうか?」 (28 :61)

أَمَّنْ جَعَلَ الْأَرْضَ قَرَارًا وَجَعَلَ خِلَالَهَا أَنْهَارًا وَجَعَلَ لَهَا رَوَاسِيَ وَجَعَلَ بَيْنَ الْبَحْرَيْنِ حَاجِزًا أَءءلَهٌ مَعَ اللَّهِ بَلْ أَكْثَرُهُمْ لَا يَعْلَمُونَ (61)

 

この2つの節も、現世の生活を守ることを口実に、信仰を寄せようとしなかった人々に対してこのように語っています。「神のもとにあるものを、はかない現世であなたたちのもとにあるものを同じだと考えるのか?あなたたちはそれを手に入れるために、現世の物質的な恩恵から手を引こうとしないとは。現世の恩恵の華やかさに目を奪われ、永遠の幸福と精神的な装飾を見ようとせず、最後の審判の永遠の恩恵を手に入れるために、それらを捨てることはできないのか?」

 

第60節の終わりでは、間接的に、それは理性に反する行いだとし、彼らにこのように尋ねています。「あなたたちは考えないのか?」 そう、簡単な比較によって、賢い人間なら誰でも、永遠の恩恵を一時的なはかない恩恵の犠牲にすべきではないことが分かるでしょう。

 

この節は続けて、このような表面だけを見る人間と、信仰を持ち、現実的な見方をする人間とを比較し、次のように語っています。「今、神の約束を確信し、神のために行動する人々は、最後の審判で神からの報奨を手にするだろう。だが、この物質的な世界に心を奪われ、はかない現世に酔いしれる者たちは、最後の審判で、敬虔さという糧の代わりに、罪の重荷を背負い、地獄へと導かれる」

 

第60節~ 第61節の教え

•           現世と来世の恩恵は、どちらも神からのものです。現世の限られたはかない恩恵によって、来世の永遠で無限の恩恵を奪われないように注意しましょう。そんなことをすれば、私たちは損害を蒙ることになります。

•           賢さのしるしとは、はかない現世に溺れず、来世の永遠の住み処を、この一時の世界のために犠牲にしないことです。現世の生活に惑わされるのではなく、結果を考えるように努めましょう。怠惰と酔いによる現世での満足は、来世での屈辱を招くことを忘れてはなりません。

•           宗教の伝道と人々の教育においては、比較という手段を用い、人々の考えを目覚めさせる疑問の形で問題を提起することで、より大きな効果が得られます。

 

第62節

「[思い起こしなさい。]神が彼らに呼びかけ、こう語る日を。『あなた方が私と同等に据えていた仲間たち、彼らはどこにいるのか?』」 (28 :62)

أَمَّنْ يُجِيبُ الْمُضْطَرَّ إِذَا دَعَاهُ وَيَكْشِفُ السُّوءَ وَيَجْعَلُكُمْ خُلَفَاءَ الْأَرْضِ أَءِلَهٌ مَعَ اللَّهِ قَلِيلًا مَا تَذَكَّررُونَ (62)

 

第63節

「[責め苦の]命が決定された人々は、このように言う。『主よ、彼らは私たちが迷わせたものたちです。自分たちも迷ってしまったように、私たちは彼らも迷わせたのです。私たちはあなたへと向かい、彼らを嫌悪します。彼らは実際、私たちを崇拝していませんでした。[彼らは自分の欲望に従っていただけです]』」 (28 :63 )

أَمَّنْ يَهْدِيكُمْ فِي ظُلُمَاتِ الْبَرِّ وَالْبَحْرِ وَمَنْ يُرْسِلُ الرِّيَاحَ بُشْرًا بَيْنَ يَدَيْ رَحْمَتِهِ أَءلَهٌ مَعَ اللَّهِ تَعَالَى اللَّهُ عَمَّا يُشْرِكُونَ (63)

 

この2つの節は、最後の審判での多神教徒の状況について触れ、次のように語っています。「彼らはいかなる助けも仲間もなく、最後の審判の場面に立たされ、神からこのように語りかけられる。『あなたたちが地上での生活で、自分たちの生活に関して私と同等に据えていた者たちは、今どこにいるのか?あなたたちを救うはずではなかったのか?』」 この節は続けて、このように語っています。「人々に崇拝されていた多神教徒や不信心者の指導者たちは、最後の審判に立たされ、それに対してこのように答える。『彼らは私たちに服従し、私たちが崇拝の対象だったと主張しているが、実際はそうではなかった。彼らは自分たちの欲望に従い、自分たちの望みを叶えるために私たちに従っていたに過ぎず、私たちと同じように迷ってしまった。だから私たちは実際、彼らの崇拝の対象などではなかった。そのために彼らを嫌悪する』」

 

この2つの節で述べられている最後の審判の様子は、現世での裁判になぞらえられています。誰かと共謀して、窃盗や犯罪を行った人は、それぞれが自分の罪を他人になすりつけ、自分は無実であるように示そうとします。罪を犯した人は、自分は他の人たちに騙され、このような道に陥ったと主張します。またもう一方の人たちも、「自分に罪をなすりつけないでほしい、あなたたちこそ、反抗的で迷っていたのだ」と主張します。当然のことながら、このような主張は、神の公正な裁判では受け入れられません。罪を犯した人は、その行いにふさわしい報いを受けるのです。

 

第62節 ~ 第63節の教え

•           あるものを、あるいは誰かを神と同等に据えることは、現実からかけ離れた空想です。

•           誰でも、神の代わりにそれ以外のものを求める人々には、最後の審判で厳しい懲罰が下されます。

•           騙され、迷いに陥った人々は、他者を迷わせようとします。

•           最後の審判で、迷った指導者や信者たちは、互いを嫌悪します。しかし、それは彼らの状況には何の役にもたたず、彼らは皆、地獄へと導かれます。

 

 

 

 

 

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