ハリウッドの黒人社会26
この時間はまず、これまでの番組の中でお話した映画をご紹介しながら、黒人と白人の関係に起こった変化について見ていきましょう。
ハリウッド映画において、黒人と白人の協力や対立の中心となる要素は力です。それは、彼らの友好と敵対の境界を示します。
1915年のバースオブネーションでは、黒人は完全にマイナス、白人は完全にプラスの人種として描かれ、政治的、社会的な不平等に合法性を与えています。この映画は、文明的な白人と野蛮な黒人の間に距離を設け、白人が黒人よりも優位であることを自然なことのように示しています。言い換えれば、この映画を観る人々に、白人が黒人よりも上の立場にいることは完全に自然なことであり、そうしなければ、社会は混乱に陥る、だから力は白人のものでなければならない、と伝えようとしています。
1927年のアンクルトムの小屋でも、まだ力は白人のものです。この映画でも、バースオブネーションと同じように、黒人に対する侮辱的なアプローチが見られます。しかし、この映画は白人の力は絶対的なものではなく、黒人にも、抗議し、より高い社会的な地位を得る権利があることを訴えようとしています。つまり、バースオブネーションとは異なり、白人が優位で黒人が弱い立場にあるのは、白人が良い人々で黒人が悪い人々であるためではなく、アメリカの人種差別にあるのだということを訴えようとしています。
1949年のピンキーは、白人の人種的な優位性に疑問を呈しています。知識が力の要素の一つであるとすれば、ピンキーでは、黒人社会にも優秀な人材が存在することが示されています。この映画の主人公であるピンキーは、優秀な看護師です。
しかし、それ以前にハリウッドで制作されたバースオブネーションとアンクルトムの小屋では、適切な職業を持つ優秀な黒人は出てきません。とはいえ、ピンキーでも、黒人は白人の支援のおかげで成功を得ており、独立した立場にはありません。
この番組で4つ目にご紹介した映画は、1967年の「招かれざる客」でした。この映画は、黒人の公民権運動の末期に制作されたものです。アメリカ社会の状況からヒントを得て、この映画の主人公は、多くの黒人の前に新たな扉を開きます。この映画の主人公は優秀な医師であり、白人の女性との結婚を望んでいます。この問題は、1960年代のアメリカ社会では受け入れられておらず、そこには法的、文化的な障害が存在しました。この映画で描かれている黒人と白人の結婚は、この2つの人種の平等を示そうとしています。つまり、この映画は、黒人と白人は同じ第一級の市民であり、共に生活できるということを示そうとしているのです。
1998年のアメリカンヒストリーXでは、黒人の力が増します。この映画では、白人と黒人がほぼ同じ影響力を持つ人々として描かれています。黒人は決して消極的な立場にはなく、白人の支配に抵抗します。アメリカの白人と黒人の若者の間に存在する嫌悪感により、彼らは堕落や死に陥ります。この映画は、社会は黒人と白人の協力、互いに認め合うことを必要としており、そうしなければ、破壊や滅亡に至るということを訴えようとしています。
この番組の中でご紹介した10本の映画のうち、半分は、オバマ政権時代に制作されたものです。興味深いのは、人種差別は今も、アメリカの社会に根付いており、黒人が大統領となった時代にさえ、黒人の要求をかなえる上で、大きな変化は見られなかったということです。
映画の世界でも、白人と黒人の協力や交流のモデルが増えたものの、多くの映画では、今も最終的な決定権は白人にあります。黒人が大きな力を得たとしても、それは白人の助けがあったためでした。例えば、2009年のしあわせの隠れ場所は、白人がその力を使って弱い立場の黒人を助けます。これにより、黒人の能力が開花して成功を収めます。
2013年の「それでも夜は明ける」は、アメリカの奴隷制時代の人種の力のバランスを強く批判しています。この映画では、黒人が弱い立場にいるのは、彼らの人種に関する本質的な問題ではなく、不平等な制度によって、黒人の生活や発展の機会が奪われているためだということが示されています。
2013年の大統領の執事の涙は、平等を求める黒人の闘争のプロセスを描いています。このプロセスの中で、以前、白人に支配されていた黒人は、政治的、社会的な地位を得るようになっていきます。
2013年の「フルートベール駅で」という作品は、再び、白人が優位に立っていることの弊害を示しています。社会における安全や秩序を守り、法の代表であるべき白人の警官は、まるで奴隷制時代の主人のように、黒人に対して、侮辱的で暴力的な態度で接します。これにより、罪のない一人の黒人青年が死に至ることになりました。この映画の出来事は皆、白人が優位な立場を利用して権力を乱用し、市民の安全や社会の秩序を乱しているため、このような立場は彼らにはふさわしくない、ということを示そうとしています。
2015年のヘイトフルエイトでは、白人と黒人の力の構造が崩されています。この映画は、黒人強い立場、白人は弱い立場にあり、黒人が白人に対して復讐を果たそうとする兆候が見られます。
実際、ハリウッドが黒人のイメージを描く際に用いているアプローチは、アメリカの政治、社会、経済、文化的な変化の影響を受けています。アメリカの社会では、未だに黒人に対する圧制が見られますが、アメリカの映画でも、黒人は第一級の市民ではありません。とはいえ、初期のように社会の敵ではありませんが、それでも決して、白人と同じ立場とは言いがたくなっています。
この映画では、黒人は白人の視点から分析され、黒人の視点からの黒人の評価は見られません。黒人は白人の視点から定義され、アイデンティティを得ます。とはいえ、それは時の経過と共に変わってきていますが、今もなおそのような傾向が見られます。
黒人は今も、アイデンティティを得るために白人の助けを借りています。つまり、映画の中で、黒人がアイデンティティを得るプロセスは独立したものではなく、白人がそれを受け入れるか、否定するかにかかっています。多くの出来事が起こるきっかけ、発端は白人です。白人は自分たちの出来事の中に黒人を巻き込み、それによって自分たちの優勢を示そうとしています。
興味深いことに、多くの黒人の女性は、女性として家庭の中で重要な役割を担っていますが、社会的な役割は非常に薄くなっています。一方で、白人の女性は家庭でも社会的にも重要な役割を担っています。
歴史的な観点から、アメリカの公民権運動における黒人の勝利とオバマ大統領の就任は、ハリウッド映画における黒人の描かれ方に影響を与えた転換点でした。
ハリウッドは、少しずつ、黒人の政治的、社会的な権利を完全に実現するための歩みを進めています。1967年の招かれざる客は、アメリカの17の州で、異なる人種間の結婚を禁止する法が撤廃されることに大きく貢献しました。実際、当時の社会の先を行っていたのです。
この数十年のハリウッド映画は、過去に比べて、黒人寄りの内容になってはいるものの、実際の社会においても、未だに黒人と白人の完全な平等が実現されていないのと同じように、映画の中でも、黒人の生き方の基準を定着させることはできていません。
黒人は、虐げられた下の立場にいる人々として、白人優位の体制を崩そうとする人々であり、白人は権力を持つ人々として、黒人を追いやり、自分たちの力を誇示しようとしています。しかし、こうした不平等は、黒人の意識の高まりと社会における権利追求の運動によってしだいになくなりつつあります。とはいえ、アメリカの差別的な構造を考えると、その速度は非常に遅いものでしかありません。