イスラム教徒の礼拝の慣習
今は、イランのイスラム教徒の礼拝の慣習についてお話することにいたしましょう。
今でも楽しい子供時代の思い出がよみがえってきます。夜明け前、母は子供たちを礼拝のために起こしました。父は礼拝中で、コーランの最初の節が私たちの小さな部屋の中に響いていました。母は私のそばで、キブラの方向に向かって礼拝用の敷物を広げ、白いチャドルを頭にかけました。父は跪拝をし、神を称え、私たちを別の世界へと誘います。その世界とは、すべてのものが明らかな存在に正しく導かれている世界です。母はいつもよりも優しい声で言います。「太陽が昇って、自分のお祈りをしていなければそれは罪深いことですよ。さあ起きなさい。神と話すのです」。礼拝とはつまり慈悲深い神と話すことです。そのとき母はキブラの方向に向き直り、少し間を置きます。そして目を閉じるとある一つの言葉を歌うように繰り返して、礼拝という驚くべき領域に足を踏み入れます。神は偉大なり。神は何よりも偉大な存在なのです。
多くのイスラム教徒はこのような子供時代の記憶を有しています。なぜなら礼拝は彼らの生活と密接に結びついているからです。ご存知のようにイランの人々の多くがイスラム教徒であり、人々の生活のすべての事柄にイスラムの信条の影響が表れているだけでなく、彼らの理想や夢も宗教と結びついています。
赤ん坊がこの世に生まれた瞬間、何よりもまず神の名を耳元でささやき、礼拝への呼びかけ・アザーンを唱えます。そして子供に相応しい名前を選びます。それは子供が人生においてこのような模範に従うようにとの願いが込められています。このためイランの人々の文化と宗教は結びついており、宗教に注目せずして慣習を行うことは無意味なことなのです。
宗教は非常に多様な側面を有しているというべきでしょう。ここではその中でも人々に重視されている礼拝についてお話することにいたしましょう。礼拝は宗教の柱というだけでなく、人々の生活の基本です。礼拝はイスラム法で定められている義務に限られず、人々の生活の細部において役割を担っています。礼拝は思想、感情、言葉、行動、人々の希望の中に入り込んでいます。このため礼拝はイランの人々の生活において重要な中心であるということができるのです。
イラン人の文化のあらゆる側面における礼拝の地位は明らかなものです。礼拝への奨励は人々の風俗習慣、比喩の多くに表れています。礼拝は最も甘美な形で、大衆文学や子供たちの物語の中にも表れており、詩やなぞなぞ、格言において最も優美な形で提示されています。人々は礼拝の中で善行を学び、神を近くに感じようとします。礼拝はイランの人々の心や魂の中に位置し、彼らの人生観に影響を及ぼしています。このため、顔や手を清める行為ヴォズー、礼拝用の敷物、モスク、礼拝所、衣服といった礼拝に関連するものはすべて特別に重視されています。
イラン人は子供たちにも礼拝を奨励します。子供のころから、彼らに礼拝の美徳について語ります。人々が重視しているのは礼拝を行うことだけではありません。時間通りに礼拝を行うことも奨励されています。実際人々は時間通りに礼拝を行うことで、子供たちに生活の中で秩序を守ることを教えています。このため、公園や海岸、森林、山の中で礼拝が行われることは、通常のこととなっています。人々はいつなんどきであっても、神との会話を先延ばしにすることはないのです。
イランを訪れる機会があれば、各町をつなぐ街道の所々で、どんな辺境地であっても人々を礼拝に呼びかける看板を目にすることでしょう。町の多くの公共の施設には礼拝所があり、これは人々が礼拝を重視しいていることの表れです。
イランの人々の文化において礼拝が重視されているように、顔や手を清めるヴォズーなど礼拝の前段階の行為にも価値が置かれています。ヴォズーはいずれにせよ美徳の一つであり、人々は常にヴォズーを行うことはご利益があると考え、聖典コーランを読む前にもヴォズーで自らを清めます。礼拝者は自分の礼拝が神に受け入れられるように、身を清めるなどの行為を守ります。こうした行為は礼拝の条件というだけでなく、神に近づくことにもつながります。
礼拝を行う人は、生活の中で道徳的な原則に従うことを余儀なくされます。人のものを盗まない、他の人の権利を踏みにじらない、人々の財産を侵害しないなどです。礼拝者の服は盗んだものであってはいけません。礼拝の場所は強奪したものであってはなりません。礼拝者が正しく相応しい人物であることに加えて、その人の持ち物も清らかなものであるべきなのです。
礼拝用の敷物も人々の文化において特別な重要性を有しています。女性たちは礼拝に対する特別な関心により、その情熱を美しい敷物作りに注ぎます。礼拝用の敷物は若い新婚カップルの婚約の儀式でも使われます。