9月 11, 2019 13:26 Asia/Tokyo
  • ペルシャ語
    ペルシャ語

言語とは、あらゆる文化にとって決定的で重要な要素の1つです。文化の最も重要な要素で、後の世代に文化を伝達する手段であるため、言語は文化の存続の中心的な役割や機能を果たします。言語の盛衰や変化は、実際に1つの文化的な社会が見てきた、様々な教えや経験を反映しているのです。このため、言語の変化の調査は、あらゆる文化的な社会が生活環境と社会的な関係において示している反応や状況を調べる方法のひとつなのです。

ペルシャ語はそのほかの文化的な特性よりも際立っており、アイデンティティを保持すると同時に柔軟性を持つという、イランの文化の類稀な特徴を示しています。ペルシャ語はほかのイランの文化的な総体と同じように、数千年の変化や進化を潜り抜け、各時代の状況の変化に応じた修正を受け入れ、存続することができたのです。このため、今日のペルシャ語は表面上、古代ペルシャ語やパフラヴィー語とそれほど似ていませんが、イランの文化の歴史的な変遷の中で、数多くの変化を受容しながらも、いまだイランの特殊なアイデンティティを失っていません。ペルシャ語は単語、文法構造においてもあらゆる時代や民族、イランの人々が戦争や平和を通じて触れ、交流してきた様々な文化から影響を受けましたが、その基本的なアイデンティティを失うことはなかったのです。

ペルシャ語はあらゆるイランの文化的な総体と同じく、常にほかの文化や言語との交流があり、ほかの言語の概念や単語に対して常に門戸を開いていました。このため概念、交流面での包容力や可能性、豊かさがそれまで以上に増加しています。さらにイランの歴史において、さまざまな文化を持つ人々が共存していましたが、イラン独自の文化のアイデンティティーやその存続に弊害をもたらさなかったのみならず、これをさらに豊かなものにしました。また、ペルシャ語にこれほど様々な言語の単語や概念が流入したことで、ペルシャ語は世界レベルでの交流や概念の面での可能性を増し、最終的に中世には、世界の広大な範囲において、国際的な言語となったのです。

ペルシャ語は、未だに祖先の言語に負うところが大きく、一部の古い単語は3000年以上前のアーリア人にさかのぼります。これらの単語は、遠い昔におけるイラン系の諸部族をはじめとした、インド・ヨーロッパ族の共通性を物語るものです。兄弟という意味の「バラーダル」、父という意味の「ペダル」、母という意味の「マーダル」、娘という意味の「ドホタル」、唇をあらわす「ラブ」、眉毛をあらわす「アブルー」、荷馬車という意味の「ガーリー」、水を意味する「アーブ」は、この言語グループの単語であり、今なおペルシャ語でも、ヨーロッパ諸語でも利用されています。ペルシャ語は構造の点から、いまだにインド・ヨーロッパ語の特性を保持しており、彼らと長い間交流してきたほかの言語による、構造面での大きな影響を受けることはなかったのです。現在でも、ペルシャ語やそのほかのインド・ヨーロッパ諸語は、文の最初に必ず名詞が来て、その後に動詞が来ます。ペルシャ語の単語も昔と同じように、インドヨーロッパ語の構造を持ち、語根に接頭辞や接尾辞がつけられることで、様々な活用形ができます。

アーリア人がイラン高原に入った時代、イラン系の諸言語がより広範囲で使用されている言語と混合し始めました。アケメネス朝の出現以前、古代の世界ではチグリス・ユーフラテス川流域の民族の言葉であるアラム語が大変広く使われていました。アケメネス朝時代になって初めて、多くの言語や文字がやり取りされ、複数の民族の間で言語的な交流を促進する可能性が整えられました。マケドニアのアレクサンダー大王以前の時代には、イラン人とギリシャ人が軍事的、文化的なやり取りを行っていたことから、イランではギリシャ語が知られていましたが、アレクサンダー大王の後継者により、ギリシャ語に代わってアラム語が公用語となりました。

歴史的な証拠によると、イラン系の諸民族は自分たち特有の言語を持ち、それを手放すことがなかったにもかかわらず、常に現実的な視点から、自分たちの言葉よりもより複雑で変化の進んだ、しかも国際交流の際に通用性のある、より複雑な特定の言語を公用語、文語として受容しようと考えていたということです。アケメネス朝時代やアルサケス朝時代、イラン系の言語や古代ペルシャ語、パフラヴィー語や古いペルシャ語の一種、ダリー語が公用語のアラム語やギリシャ語とともに使われ、イラン系の民族は日常生活の中では民族語を使っていました。

サーサーン朝時代には、それまでの時代とは異なり、公用語は外国語ではなく、パフラヴィー語が公用語、宮廷内の言葉として利用されました。一方で、アケメネス朝時代の人々が築いた、ほかの言語からの翻訳の伝統はこの時代にも続いています。こうした翻訳への関心により、ギリシャの本土でギリシャ文化が衰退した後も、この文化の偉大な成果は忘却されることなく、イスラム以後もパフラヴィー語からアラビア語への翻訳が行われたことで、最終的にヨーロッパ文明につながったのです。

イランの人々はイスラム初期時代の数百年間、広いイスラム世界をかけめぐり、その中で文化的な活動を行うに相応しい、成熟した言語を持っていませんでした。パフラヴィー語はどちらかと言えば宮廷内で使われる、また宗教に関係した言語であり、その書き言葉と話し言葉のいずれも複雑であったことから、世界的な言語にはなれず。イランの人々はそれを国際舞台で使うことができなかったのです。このため、彼らはまずイラン人の文学者や学者の努力により、単純で基本的なアラビア語の文字や言語を、イスラム世界全域で受け入れられる言語とし、その後それを世界レベルで文化活動を行うための手段としました。10世紀にハーラズムで生まれたイランの著名な学者アブーレイハーン・ビールーニーは、イラン系言語の1つで、自分の母語であるハーラズム語では、世界的な学問を語ることはできない、と述べています。ビールーニーによると、ハーラズム語で学問的内容が記されるのは、驚異的なことだと思われるということです。彼はハーラズム語だけでなく、アラビア語、ダリー語、サンスクリット語、古代シリア語、ギリシャ語に精通していました。

イスラム以降の数百年間、アラビア語とペルシャ語が共にイスラム世界の大都市で使用されるようになりました。現在のイラクに位置するバスラとクーファの2つの都市では、ペルシャ語がより頻繁に話されており、これらの町の大多数の人々やアラブ人は二ヶ国語を使用していたということです。イランの人々は、ギリシャ語に精通していたアルサケス朝時代と同じように、アラビア語に触れるとすぐにその言葉をマスターしました。アルサケス朝時代と違うのは、イランの人々はアラブの人々よりも複雑で進歩した文化を持っており、文化や文明を築く上でより多くの経験を有していたことです。

アラブ文化は、どちらかと言えば口語の文化であり、彼らは学問や知識を記録することの価値を認めず、話し言葉による口承の伝統をより重んじていました。レバノンの歴史学者ジダンは著書『イスラム文明史』の中で、次のように記しています。「イランの人々はアラビア語と関係のある学問において、自分たちにとってアラビア語は外国語であったにもかかわらず、指導的な立場を獲得した。アラビア語による初の書物の源は、イラン北東部ホラーサーン地方であり、アラビア語の文法を体系化する基盤は、イラン南部・ファールスの出自であるシーバワイヒによって打ち立てられた。後にアラブ文学として名声を得た著作の編纂は、その多くがイラン人学者によって行われたのである」。

11世紀の地理学者ムカッダシーは、「イスラム世界全域を旅した中で、ホラーサーンの人々が最も純粋なアラビア語を使っていた」と語っています。また、イギリスのイラン学者E・G・ブラウンの著作『ケンブリッジ・イラン史』には、「イランの人々は翻訳家、作家としてアラビア語文学を生み出す中で大きな役割を果たし。多くのアラビア語の学者や作家はイラン人であった」と記されています。この数百年間、ペルシャ語とアラビア語が互いの単語を取り入れ始め、イラン系の言語とアラビア語との建設的な交流が広がりました。8世紀から9世紀のアラブ文学者ジャーヒズは、ある人物に対して、「アッバース朝のカリフ・ハールーン・アッラシードを賞賛する韻文は全て、ペルシャ語で韻を踏んでいた」と語ったということです。

 

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