アブーナスル・ファーラービー
イランの人々、そして世界の人々の思想や作品に影響を及ぼした思想家やその名声は、世界的な遺産とされています。ルーミー、あるいはモウラーナーとして知られている13世紀の神秘主義詩人モウラヴィーや、12世紀の詩人ニザーミー、神秘主義哲学者ソフラヴァルディー、10世紀から11世紀の学者ビールーニー、13世紀の学者ナスロッディーン・トゥースィーなどの人物はイランが誇る名声であり、世界の人々は彼らの思想による大きな恩恵を受けています。また、世界における知は、彼らに負うところが非常に大きいのです。
イランの偉大な学者アブーナスル・ファーラービーはおよそ870年、ファーラーブで生まれました。彼の正確な出生地は、歴史家の間で意見が分かれています。
一部の人は現在のカザフスタン南部のオトラルの近くであるとしており、また一部は、現在のアフガニスタンの一部で、当時はホラーサーン地方とされていたファーリヤーブであるとして、彼の両親はイラン系だと強調しています。ファーラービーの父親は、イランの軍人だったとされています。
15世紀の法学者イブン・アビー・ウダイバの歴史書は、ファーラービーはパールス人だとしています。10世紀の学者イブン・ナディームも、13世紀後半のアッシャフルーズィーも、ファーラービーをイラン人であるとしています。
ファーラービーはペルシャ語系のパールシー語やソグド語の著作や、ギリシャ語による著作で知られていますが、トルコ語の単語は彼の著作の中には確認されません。研究者によると、彼が一部の著作においてソグド語を使っていたのは、ファーラーブで使われていた彼の母語がソグド語だったためである、ということです。
ファーラービーが純粋なパールシー語を使っていたことは、ほかの資料においても確認されます。
オックスフォード大学のボスワース教授は、「ファーラービーやビールーニー、イブン・スィーナーのような偉大な人物は、トルコ寄りの学者によってトルコ系であるとされている。初めてファーラービーをトルコ系だとした学者は、イブン・ハッラカーンだった」と記しています。『エンサイクロペディア・イラニカ』つまりイラン百科事典ではイブン・ハッラカーンが批判されており、これに関して、彼以前にイブン・アビー・ウダイバが、ファーラービーがパールス人だったとしており、イブン・ハッラカーンは彼をトルコ系だとする根拠を偽造したとしています。イブン・ハッラカーンはファーラービーのファーストネームをアルトルクだとしていますが、ファーラービーには何の関係もありません。
20世紀のイランの優れた言語学者デホダーは、ペルシャ語文学を専門とするバディーオッザマーン・フォルーザーンファル教授の話として、次のように述べています:
「ファーラービーの生涯に関する説明の中で、彼の子供時代や若いころの実態について示す内容は存在しない。13世紀の文学者イブン・アビー・ウサイビアは、彼に関する2つの矛盾した説を伝えている。一つはファーラービーははじめダマスカスの庭園の警備員を勤めていたという説と、若いころ法官として務めていたが、ほかの学問に触れたことから法学をやめ、法学以外の学問に集中するようになった、という説である」
ファーラービーは若い情熱により哲学研究を行い、指導を求めて学問所を渡り歩き、学問以外何も求めなかった、とされています。
ファーラービーは40歳ごろ、学問の習得のためにバグダッドに赴いた、と伝えられています。この時代、文法学、法学、ハディース学を修得していましたが、論理学や哲学に関しては多くを学んできませんでした。バグダッドに着いてから、マッタイー・ブン・ユースフという人物の下でこの2つの学問を学びました。
現在のトルコ南部のハッラーンに移動し、ユーハナ・ビン・ヘイラーンという人物に師事しました。初めから彼の絶え間ない努力と聡明さにより、学んだ内容のすべてをよい形で修得しました。彼はまもなく哲学者、学者として名声を獲得し、バグダッドに帰還したときは、彼の周りには多くの弟子が集まりました。キリスト教徒の哲学者ヤフヤー・ブン・アディは、彼の弟子の一人でした。
ファーラービーは941年、ダマスカスに赴き、アレッポ・ハムダーニー朝の為政者サイフウッダウラに仕え、多くの学術的な業績を残しました。ファーラービーは950年、ダマスカス近郊において80歳で死去しました。
多くの人々は、次のような話を信じています。ファーラービーがダマスカスから現在の被占領地パレスチナ南部のアシュケロンに移動中、盗賊に遭遇した際、「乗り物、武器、服、金品はすべて持っていていい、私に関わるな」と言ったところ、盗賊はこれを受け入れず、彼を殺害しようとし、この中でファーラービーは死亡しました。シリアの為政者たちはこの出来事を知り、彼をダマスカスで手厚く葬り、この盗賊たちを彼の墓の前で絞首刑にしたということです。
イスラムの歴史家は、ファーラービーは禁欲的であり、熟考する人物で、神秘主義者の質素な服を着て生活し、研究と執筆以外に関心を持たなかったと考えています。また、サイフウッダウラが彼に多くの報酬を与えようとしていたにもかかわらず、彼は一日あたりディナール銀貨4枚で満足していたほど、世事を疎んでいたということです。
ファーラービーはさまざまな学問に精通していました。彼は当時の学問に関するすばらしい著作を残しました。彼が数学、錬金術、天文学、兵法、音楽、神学、自然科学、民法や法学、論理学に精通していたことは、その著作によって明らかにされています。イスラム初期の哲学者キンディーは後進のための道を切り開いた人物として知られていますが、実際、キンディーは哲学における学派を創設することなく、議論されていた問題をまとめた人物でした。しかし、ファーラービーは完全に彼自身の学派を創設したのです。
キンディーが始めた大きな仕事は、ファーラービーが力強く、そして忍耐づよく継承しました。ギリシャ語からアラビア語、シリア語に翻訳された哲学は、これらの言語との親和性はありませんでした。かれはアラビア語を哲学により知りました。
イランの著名な学者イブン・スィーナーは、ファーラービーを自分の師としており、哲学者のイブン・ルシュドやその他のイスラム世界の学者も、ファーラービーに大変な敬意を払っていました。
ファーラービーが学者として最高の栄誉を受けていたことは、イブン・スィーナーの言葉でも確認されます。彼は、「ファーラービーのアリストテレス哲学の注釈を読んだが、40回読んでも、バザールでこの本を見つけてからこれまで、文句が付けられない。この本を読んだ後、その内容を理解し、大変嬉しくなった」と述べています。イスラム哲学の伝統では、ファーラービーをアリストテレスの次に位置づけ、「第二の師」と呼んでいます。
ファーラービーは、彼の努力によって学問と哲学の再興期を迎えた、イスラムの歴史と文化における初期時代に生きた、「第二の師」と呼ぶにふさわしい人物です、実際、彼は哲学を再生した人物であり、イスラム哲学の創始者なのです。イスラム世界で広がった哲学とその歴史は、ファーラービーの時代から、現在まで続いています。ファーラービーの時代である9世紀から、19世紀のイランの哲学者モッラー・サブゼヴァーリーの時代まで、世界の創造というテーマは、イスラム思想における最も重要なテーマでした。
ファーラービーはギリシャ哲学を完全にマスターし、アリストテレスの影響を受けました。ファーラービーの思想において興味深いのは、彼の著作『有徳都市の住民が持つ見解の諸原理』の中に見られる理想都市論です。彼はこの本の中で理想的な都市を描き、その中ではイスラム法が施行され、人々と為政者はイスラム法に基づいて関係を築く、としています。