9月 19, 2019 15:52 Asia/Tokyo
  • セイエド・イスマーイール・ジョルジャーニー
    セイエド・イスマーイール・ジョルジャーニー

11世紀の医学者、セイエド・イスマーイール・ジョルジャーニーはイランの有名な医学者で、非常に知名度が高い人物であるものの、その生涯についてはあまり知られていません。ジョルジャーニーはイランの、そしてイスラムの医学の頂点に君臨しており、イランの最も高い栄誉を受けています。残念ながら、ジョルジャーニーに関して、彼の伝記や様々な資料、そして彼自身の作品に至るまで、その情報は非常にわずかであり、限られています。

ジョルジャーニーは西暦1042年に当たるイスラム暦434年に、ジョルジャーン、つまり現在のイラン北部、カスピ海付近のゴルガーンで生まれました。彼の家系は中部イスファハーンに住んでいた預言者の子孫だったとされています。ジョルジャーニーの時代、ジョルジャーンの町はほかに例を見ないほど繁栄を極めており、あらゆる町において学問を求める人たちの間では、必ずジョルジャーンの教育機関やその教師たちが話題になっていたとされています。このため、ジョルジャーニーはこの町で学び始めたと考えることができます。また、彼はおそらく医学の勉強も、若いころにジョルジャーンではじめたと思われます。

イランの有名な医学者イブン・スィーナーも、一定期間ジョルジャーンに滞在し、教育に従事すると共に、この地で有名な医学書である『医学典範』の第一部を執筆しました。また、「医学の鍵」という医学書を執筆したもう1人の学者アボルファラジ・イブンヒンドゥは、イスラム暦400年から455年、つまり11世紀初めから中ごろ、ジョルジャーンに滞在し、学問を教えていました。このため、ジョルジャーニーはおそらく、イブン・スィーナーの弟子や、イブン・ヒンドゥの弟子の下で、医学や哲学を学び始めたと思われます。

興味深いことに、ジョルジャーニー自身に関して執筆した著作から、彼が学問のために旅行したとことが分かっています。ジョルジャーニーは生まれ故郷を発った後、最初にイラン北東部の町ネイシャーブールに赴き、その後現在のイラク各地やイラン南部のファールス州、フーゼスターン州を旅行し、これらの訪問先でその土地の医学を活用したと思われます。ジョルジャーニーが各地を旅したことは、当時の医学教育における重要な場所がどこだったかを示しています。当時、ネイシャーブールは、大きな学問的中心地であり、規模の大きな病院が存在していました。研究者によれば、当時の医学の歴史を振り返ってみると、ジョルジャーニーが故郷からネイシャーブールを訪れた主な理由とは、当時の優れた医学者のアボルガーセム・ネイシャーブーリーの学問的なサークルを利用することだったことが分かります。現在のテヘラン南部に位置するレイなどの町にはザカリヤー・ラーズィー、アボルハサン・トランジーなどの偉大な医学者が滞在していました。またイスファハーンにはイブン・スィーナーが14年間滞在し、さらにはイブン・マンドゥーイェといった有名な医学者が住んでいました。いずれの町も、大規模で有名な病院が存在していました。イラン南部・シーラーズには、有名な病院が存在し、優れた医者がいました。また、イラン南西部フーゼスターン地方では、ジョンディー・シャープールという古くからの研究機関と医療施設は活動していなかったものの、それらの病院で働いていた医者たちは、アフワーズなどフーゼスターン地方のその他の町におり、名声を得ていました。

ネイシャーブール以外で、ジョルジャーニー自身が訪問した町として認めている唯一の町には、現在のテヘラン南方の聖地ゴムがあります。この町は当時、シーア派イスラム教徒が住んでいることで知られており、宗教学やそれ以外の様々な学問を教える優れた教育機関がありました。彼の記した『ホラズムシャー宝典』によると、彼はゴムで10世紀から11世紀にかけての有名なイランの天文学者で、医学活動も行っていたクーシャール・ギーラーニーの子孫と会っています。ジョルジャーニーがいつ、どのような理由でゴムに赴いたのかははっきりしていません。唯一考えられるのは、彼がゴムに向かったのは、現在のイラン北東部と中央アジア地域に当たるハーラズムに出発する前、すなわちイスラム暦504年以前だった可能性があるということです。また、ジョルジャーニーが若いころ、現在のトルクメニスタンのマルヴや現在のアフガニスタンのバルフに滞在していた可能性も指摘されています。

確かにジョルジャーニーは知識を獲得するために旅をしたことにより、数多くの学者たちの教えを受けました。しかし残念ながら、ジョルジャーニーの師匠は様々な学問において、あまり知られていませんでした。彼の師匠として知られる学者の一人に、医学者のネイシャーブーリーが存在します。彼は遺体の解剖を行い、ヒポクラテスやガレノスなどの著作の注釈を記しており、第2のヒポクラテスという異名を持っています。イブン・スィーナーが出現すると、イランのイスラム医学者は新たな時代を迎え、彼の優れた弟子たちも、彼の手法で医学研究を継続しました。ネイシャーブーリーもイブン・スィーナーの優れた弟子の一人で、ネイシャーブールに戻って教育活動や医療活動を行い、いくつかの著作を記しました。これにより、イブン・スィーナーの手法が継続され、ネイシャーブールは医学教育の中心地となりました。ジョルジャーニーは、著作『ホラズムシャー宝典』において、自らの尊敬すべき師匠について、「アボルガーセム・ネイシャーブーリーに神の恩恵あれ」と記しています。残念ながら、この高名な医学者に関する歴史的事柄はほとんどわかっておらず、その弟子も唯一、ジョルジャーニーのみがしられています。

ジョルジャーニーが『ホラズムシャー宝典』で挙げたほかの師匠には、アフマド・ファッロフまたはアフマド・ファラジがおり、彼の名前はジョルジャーニーのほかの著作でも指摘されています。一方では、医学以外の分野のジョルジャーニーの師匠として、11世紀の神秘主義思想家で、ゼイノルイスラムと呼ばれていた、アボルガーセム・ネイシャーブーリーがおり、この人物はアジア最大のイスラム学者とみなされています。ジョルジャーニーはネイシャーブールで、ホラーサーン地方の人々の指導者のもとでハディース学を学び、アルバイーンを初めとする、ハディース関係の書物について語っています。

医学のほかに、衛生学や、生理学、薬学、獣医学、そのほかハディース学などの医学周辺の学問は、様々な資料に注目すると、ジョルジャーニーが学び、それに精通し、名声を得て、おそらく学術書を執筆した学問の一部だということです。また、現存する資料では、詩などのアラビア語文学、倫理、哲学、論理学をあげることができます。イスラム教の導師としてのジョルジャーニーの名声に注目すると、彼がハディース学や解釈学などイスラム教諸学に精通し、名声を得ていたことは明らかです。さらに、彼が哲学や論理学に精通していたことは、彼が哲学の大家として知られていたことから、十分に納得できます。研究者によると、『ホラズムシャー宝典』を読んでみれば、ジョルジャーニーが当時、マルヴやバルフといった、当時のホラーサーン地方の主要な町で医療活動を行っていたことが分かる、ということです。ホラーサーン地方は当時、イラン・イスラム文化とその文明の最も重要な中心地のひとつとみなされており、4つの大きな町の名前によって4分割されていました。当時の学術的な中心地だったこのホラーサーン地方の4つの都市はそれぞれ、ネイシャーブール、マルヴ、バルフと、現在のアフガニスタンにあるヘラートでした。ジョルジャーニーは、青少年期に入ったばかりのころをネイシャーブールで過ごしましたが、マルヴ或いはバルフでの滞在については、彼のこれらの場所での医療活動に関する指摘によると、おそらく中年期にゴムやレイ、南部のファールス地方やフーゼスターンを訪れた後であったと考えられます。ジョルジャーニーはこの時期、医療活動の傍らで、教育活動にも従事していました。研究者はジョルジャーニーがマルヴの方言を知っていたことから、中年期の多くの期間、マルヴに滞在していたと結論付けています。最も、彼の著作『ホラズムシャー宝典』からは、ジョルジャーニーがジュルジャーンやマーザンダラーン、ハーラズムや現在のウズベキスタンのフェルガナ地方などの地区を知っていたことが伺えます。

そのほか、重要な事柄としては、ジョルジャーニーがホラズムシャー朝の王、ゴトブッディーン・ムハンマドと親しかった可能性があることが挙げられます。ジョルジャーニーが西暦1110年から1111年に当たるイスラム暦504年、マルヴに滞在していた可能性が高いとされる時期に、『ホラズムシャー宝典』の執筆は、この王の名の下で行われました。信頼できる歴史的資料によると、ゴトブッディーン・ムハンマドはマルヴで当時の学問を学んだということです。ホラズムシャー朝が西暦1098年ごろにあたるイスラム暦491年から始まったことから、ジョルジャーニー自身がゴトブッディーン・ムハンマドの教師だった可能性があります。

 

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