ギヤーソッディーン・ジャムシード・カーシャーニー(1)
今回は、イスラム時代のイランの傑出した天文学者で、数学者でもあるギヤーソッディン・ジャムシード・カーシャーニーをご紹介することにいたしましょう。彼は、旧式の基本的な四則計算を修正して完成させ、これらを刷新してより簡便な方法を編み出した人物です。
カーシャーニーは事実上、特に掛け算と割り算を初めとする四則計算の現在の方法を編み出した人物だといえます。彼の残した価値ある著作に、初歩的な数学に関する教則本『計算法の鍵』が挙げられます。これは内容が充実し多様性に富んでおり、また流麗な文章で説明されていることから、中世時代の全ての数学書のうちの傑作とされています。
カーシャーニーの生い立ち
ギヤーソッディンという称号を有するジャムシード・カーシャーニーは、西暦1388年ごろ、マスウードという名の医者の息子として、イラン中部の町カーシャーンに生まれました。彼の生涯について現在分かっていることの多くは、彼の学術的な著作の他、自分の父親と故郷カーシャーンの人々に宛てた、2通の書簡の研究が行われた結果得られたものです。彼の幼少時代と青少年期はちょうど、テイムール朝によるイランへの襲撃が最も激しかった時期に当たります。しかし、カーシャーニーはそうした状況においても、決して様々な学問の習得を怠りませんでした。もっとも、彼がどこで、また誰のもとで学んだかについては、情報はそれほど残されていません。唯一の可能性として考えられるのは、彼がカーシャーンを初めとするイラン中部の複数の町、そして南部ファールス地方において学問を修めたのではないかということです。父マスウードは医者でしたが、おそらくその他の学問にも非常に精通していたと思われます。例えば、カーシャーニーが父親に宛てた書簡の1つからは、父マスウードがイランの数学者・天文学者であるハージェ・ナスロッディーン・トゥースィーの著作について説明文を書き、息子であるジャムシードに送ろうとしていたことが分かっています。
カーシャーニーの学術活動の概要
歴史上はっきりしているカーシャーニーの初の学術活動は、1406年6月2日におけるカーシャーンでの月食の観測です。彼は1407年、即ちテイムール朝の創始者であるテイムールが死去し、この人物による騒乱が静まった2年後に、カーシャーンにて自らの初の学術論文『天空の梯子」をアラビア語で執筆しました。彼は、23歳だった当時はまだカーシャーンにおり、宇宙学に関する概略的な論文をペルシャ語で記しています。しかし、当時は支配者の支援なしでの学術活動はまず不可能でした。カーシャーニーは、1414年に『ハーガーニーの天文表』という題名により、天文学に関する重要な著作をペルシャ語で著し、現在のウズベキスタンの町サマルカンドにいたティムールの孫に当たるウルグ・ベグに献上しています。カーシャーニーは、著作のある箇所において自分が経済的に困窮していたことに触れており、ウルグ・ベグの支援がなかったら、著作『ハーガーニーの天文表』を完成させられなかっただろうと述べています。彼は、ウルグ・ベグの支援により、安心して自分の研究活動の多くを継続できるよう希望していました。
ティムール朝と学問奨励者ウルグ・ベグ
カーシャーニーが故郷カーシャーンに住んでいた頃、イランはテイムール朝の支配下にありました。この時代には、天文学や数学が特に普及しており、このことは当時から残っている天文表の他、数学や天文学の書物からも明らかになっています。ティムール朝の一族の中でも、最も学術を愛し、最大の有識者であったのは、ティムールの孫ウルグ・ベグでした。彼は、文化や学者を支配すると共に、自らも数学や天文学の知識を有していました。ウルグ・ベグは、父親から現在の中央アジアに当たるトランスオキシアナの支配者に任命され、1449年にこの世を去るまで、その地を支配していたのです。彼は、自分が持っていた知識や、自分が支配する中央政権の本拠地サマルカンドが、学問の拠点になろうとしていた当時の状況から、大きな学術教育機関の創設を決意しました。1421年に、ウルグ・ベグはサマルカンドに立派な学校を建て、そこでは神学やその他の学問の教育が行われました。そのため、この学校は非常に名声を博し、津々浦々から学生が学問を学びにやって来るようになり、エジプト・カイロのアズハル大学や、イラク・バグダードのニザーミーヤ学院、スペイン・アンダルシアのコルドバ大学のように、壮観な最高学府となったのです。
ウルグ・ベグは幼少時代に、イラン北西部の町マラーゲにある天文観測所を見ており、1420年にはサマルカンドに天文観測所を設置することを決意し、マラーゲの天文観測所の業務を継続しようとしました。このため、彼はイラン中部カーシャーンや南部の町シーラーズから、然るべき学識のある学者をサマルカンドに招聘しています。彼は、イランの偉大な学者たちの助けにより、サマルカンドに天文台を設置し、この天文台に関係する天文表や計算表の基盤を打ち立てることに成功しました。このようにして、ウルグ・ベグはサマルカンドという自らの政治の本拠地を、計算学や天文学研究を初めとする学術活動の中心地へと変えたのです。
サマルカンドに招聘されたカーシャーニー
複数の推論によれば、カーシャーニーは少なくとも、1421年の時点で、即ち自らの著作『計算法の鍵の精選集』という著作を著してからしばらくは、まだカーシャーンで過ごしていたとされています。驚くべきことに、ウルグ・ベグのような相当な学識者が、ハーガーニーの天文表を研究した後も、この天文表を著したジャムシード・カーシャーニーの、類まれな天 才ぶりに気づかなかったのです。カーシャーニーは、2つの書簡のうちの1つにおいて、自分が当時の政治家たちに注目されるのが非常に遅れたことに不満を示す一方で、この長い期間が過ぎてからサマルカンドのような町に招かれたことに、大きな喜びを示しています。
とにかく、カーシャーニーはサマルカンドの天文観測所の設置を補助するために選ばれた人物の1人でした。物理学、数学、天文学の専門家で、驚くべき学力を持つこの若者は、研究活動に相応しいチャンスを得たことがなく、その豊かな学識を発揮する機会はありませんでした。彼は、ウルグ・ベグの経済支援により、自らの著作の1つを執筆し、これにウルグ・ベグの父、シャーロフ・ティムーリーの称号であるハーガーニーを取って、『ハーガーニーの天文表』という題名をつけ、ウルグ・ベグに献上しています。一部の人々の間では、カーシャーニーがサマルカンドに招聘された理由は、まさにこの天文表の執筆であるとされ、また別の人々の間ではウルグ・ベグが、やはり天文学者で数学者でもあったガーズィーザーデ・ルーミーという人物により、カーシャーニーを見つけ出し、多大な支援と共に丁重にサマルカンドに招いたと考えられています。なお、これについては言い伝えも存在しており、ここでこの伝承をご紹介することにいたしましょう。
ローマ帝国の学者とカーシャーニーの出会い
現在のトルコに当たるローマ帝国の学者の1人、ガーズィーザーデ・ルーミーは、中央アジア・トランスオキシアナの支配者だったティムール朝のウルグ・ベグに謁見するため、イラクを経由してサマルカンドに向かい、途中でカーシャーンに到着しました。ある日、彼は自分と同じ言葉を話す数学者を探すため、街中の市場や街路を歩き回っていました。そこで彼は偶然にも、ある小さな商店の前を通りかかり、背の低い男がそこに座って書物を読んでいる光景を目にします。その男の周りには、数冊の書物や球体、天文観測儀といった、天文学に使う器具が置かれていました。ガーズィーザーデはそこで、この男はきっと天文学者か数学者に違いないと予測します。
彼はこのことに非常に喜びを感じ、この男に挨拶をし、次のように訪ねました。
「あのう、この道具は一体何でしょうか?」
背の低いその男は、こう答えました。
「あなたは一体、何をしたいのですか?」
ガーズィーザーデは、「買い求めたいのです」と告げました。すると、背の低い男は「何を買いたいのですか?」と尋ねました。ガーズィーザーデは、「天文観測儀が欲しいのです」と答えました。その男はまた、次のように述べました。
「天文観測儀が、どうしてあなた様の役に立ちましょうか?」
ガーズィーザーデは、ある種の天文観測儀の名前を挙げます。すると、店に居たその男はこう語りました。
「私は、この天文観測儀でもって、私が抱えている数学や天文学の技術の問題に対する答えを示してくれる人に、この観測儀をお売りします」
ガーズィーザーデは、答えに詰まってしまい、その男に天文学や数学に関する質問をし、それら1つ1つに対する正しい答えを受け取りました。
ガーズィーザーデは、店に居たその男の鋭敏な知能や知識の豊かさに驚き、お名前を教えてくださいと頼みました。すると、その男こそは、ギヤーソッディン・ジャムシード・カーシャーニーだったのです。この2人は、強い友情で結ばれました。ガーーーデは、サマルカンドに到着した際、ウルグ・ベグが天文観測所を設置して、新しい天文表を作成しようとしていることを知り、ウルグ・ベグに次のように告げました。
「このような事業を成し遂げるために相応しい人物をたった1人、私は知っています。それは、背の低いある男で、天空から大地のことを隅から墨まで良く知っています」
「ウルグ・ベグはこうして、カーシャーニーの存在を知り、サマルカンドからカーシャーンにいる彼の下に使いを送って、天文観測所の設置業務を彼に任せた、ということです。
カーシャーニーは、自分の姉妹の子どもであり、当時数学者として知られていたモイーノッディン・カーシャーニーと共に、1417年から1420年の間にサマルカンドに移住したと考えられています。彼は、サマルカンドから自分の父親に宛てて、2通の書簡をしたためており、その中ではサマルカンドの学術の状況や、学者と国王の関係、そして当時の文化的、社会的、学術的な問題の多くに関する有益な情報が記されています。
ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。
https://www.youtube.com/channel/UCXfX6KY7mZURIhUWKnKmrEQ
https://twitter.com/parstodayj