10月 09, 2019 13:36 Asia/Tokyo
  • ファッロヒー・スィースターニー
    ファッロヒー・スィースターニー

今回は、10世紀のイランの大詩人、ファッロヒー・スィースターニーについてお話することにいたしましょう。

ファッロヒー・スィースターニーは、今からおよそ1000年ほど前の大詩人であり、当時のみならず、イランのこれまでの全ての時代に出現した詩人の中でも特に優れた詩人とされています。しかし、彼の幼少時代、そして少年時代に関する確かな情報は残されていません。この有名な詩人は、その出生年月日すらも明らかではなく、様々な推測を元に、おおよその出生年を推定することしかできないのです。

歴史的な資料によりますと、イランの著名な詩人ダギーギー・バルヒーが殺害された数年後、青年時代にあったファッロヒーは、ウズベキスタンのスルハン川流域に栄えたチャガニヤン国の宮廷に入った、とされています。彼の没年に関しても、ファッロヒーと同時代の詩人ラビービーによりますと、ファッロヒーはその頃、まだ青年だったということです。このことから、ファッロヒーは10世紀ごろに生まれていたと推測できます。さらに、詩人ニザーミー・アルーズィーによりますと、ファッロヒーは詩人として活躍し始めてから美しい詩を吟じ、竪琴を奏でていたとされています。なお、彼の没年については今尚明らかにされていません。

研究者や記録者は、ファッロヒーが詠んだ王侯貴族を賞賛する詩文に基づき、彼が1039年に現在のアフガニスタンにある町ガズニーで没したと推測しています。このことは、彼がガズニー朝の宮廷詩人としてこの王朝を称える詩を吟じていたこと、彼の詩集には1041年まで在位した、マスウード1世以降の為政者の名前が出てこないことから裏付けられます。ファッロヒーの詩集には、為政者マスウードを称える内容の詩は僅かに11篇しか存在せず、このこともファッロヒーがマスウード王より先に没したことを示しています。

ファッロヒーの父親は、イラン南東部スィースタン地方に栄えたサッファール朝の最後の王ハラーフ2世の家臣の1人でした。ファッロヒーは、若いころに様々な学問を習得し、楽器の演奏にも長けていました。彼は、詩人としての活動を始めた青年時代に、経済的に困窮していたことにより、スィースターン地方から他の土地へと移住します。中央アジアで最も古いイスラム王朝とされるサーマーン朝から、この地域の為政者と見なされていたチャガニアン国のチャガニー王は、詩人や作家を自らの宮廷に集め、厚遇しました。この王朝の宮廷では詩人が大切に扱われると聞いていたことから、ファッロヒーもチャガニー王の宮廷に入り、詩人としての人生の一時期をここで過ごしたのです。2年後、ファッロヒーはガズニー朝のマフムード王に召抱えられ、彼を賞賛する詩を吟じました。ファッロヒーはこうして、マフムード王の宮廷専用の詩人となり、宮殿において音楽の分野で有していた技能と、流麗な詩を朗吟する才能を活用し、莫大な財産を手に入れたのです。

ファッロヒーは、為政者と非常に近しくなったため、宮廷内のみならず為政者の旅行の際にも随行しました。彼は、詩作の才能に加えて、美しい声を持ち、楽器もたしなみました。音楽の面での彼の才能は、詩作にも非常に影響を及ぼし、彼の吟じた詩は驚くほどメロディアスだったのです。こうした芸術的な源を有していたことは、彼の名声が恒久的なものとなるのに十分なものでした。また、彼の人柄として、他人を褒め称え歓迎するという点が挙げられます。こうした性格を持つ彼は、宮廷に注目し、大臣たちやガズニ朝の為政者マフムードの兄弟ユーソフ、軍隊の指揮官といった、為政者以外に少しでも力のある人を見出すと、彼らを賞賛する詩を吟じては、褒美を受け取っていました。彼は、およそ25人に上る王や王子、大臣、そして当時の偉大な人物について、彼らを賞賛する詩を吟じており、そのうちの45の詩作はガズニ朝の偉人たちを賞賛する作品となっています。

ファッロヒーは、イランの英雄叙事詩人フェルドウスィーを初め、ナーセルホスロー、サナーイー、アッタール、モウラヴィー、サアディーといった名だたるペルシャ詩人とは違い、人生において特に社会的な目標を追い求めず、人々の日々の状況には注目しませんでした。例えば、ファッロヒーが生きていた当時のガズニ朝の歴史的な資料からは、イランの人々の大多数、即ち農民や職人が重税に苦しみ、為政者マフムード王が人々から徴収したこれらの税金の全てを、近隣諸国への軍隊の遠征に使い、或いは政府の金蔵にしまいこみ、さらには宮廷詩人たちに褒美として渡していたことが分かります。

ファッロヒーは、自らガズニ朝の為政者マフムード王の圧制を目の当たりにしていながら、自らの詩作においてはそうした社会的な状況や、人々の問題に全く触れませんでした。ここで、次の点に注目する必要があります。それは、ガズニ朝時代には、宮廷という場所が詩作や詩人の商取引の場になっており、詩人の多くは宮廷からの収入に頼っていたということです。即ち、彼らは為政者や王子たちを賞賛する詩を吟じて(金銭などを受け取って)いたため、この時代には倫理的、社会的な問題にはあまり触れなかったのです。このため、多くの研究者や思想家はガズニ朝の支配者の事情を知る上で、この時代の詩人の詩集を活用しており、ファッロヒーの詩集もそうした資料の1つとされています。なぜなら、彼は為政者たちと共に一生を送っていたからで、1万句もの詩が収められた彼の詩集には、為政者たちを賞賛する以外の内容は見つかりません。

ファッロヒーは、確かにガズニ朝の宮廷に従属していた点で批判されてもやむをえないものの、やはり彼はイランで最も優れた頌詩を詠む詩人であると言わねばならないでしょう。9500句に上る彼の詩作の内訳は、為政者などを賞賛する頌詩、抒情詩、そして四行詩などとなっています。彼は、頌詩の大部分をガズニ朝の宮廷内で吟じており、当時の詩人たちの形式に倣って、王たちや王子、大臣、そして自分と同世代の偉人たちを賞賛していました。

頌詩を吟じた全ての詩人たちの中でも、ファッロヒー・スィースターニーはその簡素で流麗、且つ重厚でしっかりとした作風という点で、特に優れているといえます。彼は、ごく普通の思想や感情を活用し、それらを単純明快、そして流麗な言葉で表現することにおいては、相当なレベルに達していました。このため、一部の評論家の間で、ファッロヒーはイランの名高い抒情詩人サアディに匹敵することもあると考えられています。また、彼らの考えでは、サアディが抒情詩の中で吟じている甘美な感情表現や、その単純明快さ、機知に富んだ言い回し、優しさ溢れる感情を、ファッロヒーは頌詩の吟遊詩人の間で身につけたとされています。

現代イランの優れた研究者ザッリンクーブ博士は、著作の中でファッロヒー・スィスターニーの詩集を批評しており、彼の詩文の特徴について次のように述べています。「古代における詩の愛好家が、ファッロヒーの詩作の中で好んでいたものは、一見して平易であるものの模倣することが難しい、その甘美で流麗な表現だった。その優美な韻律は、聞き心地のよい物であり、簡素ながらも美しい意味が込められ、この点はファッロヒーの特に卓越した点である。心に染みる明快さがゆえに、彼の言葉のあやには、絹織物のような滑らかさや繊細さが加わり、その機知に富んだ言い回しは大抵、堅苦しさを忘れさせるものであった」

ファッロヒーの抒情詩も、特別な優美さを持っています。彼の吟じた抒情詩には全て、喜びや若々しさ、幸福に弾んだ精神が溢れており、それらは心に染みる優美な言葉で詠まれています。当時の時代の風潮や環境は、彼に影響を与え、その抒情詩は当時の状況を示しています。彼は、自らの抒情詩においてこうした全てのテーマを、絵画的、情景的な雰囲気に溢れた優美で滑らかな表現により、芸術的に具現しているのです。彼の詩作は非常に美しいものであり、確かに王や宮廷の役人を褒め称え、誇張している部分が見られるものの、読者は知らず知らずのうちに、彼の表現力や情景を連想させる力を賞賛せずにはいられなくなるのです。ファッロヒーのこうした詩作は、心を揺り動かすものであり、多くの人々はこれらの抒情詩が彼の生涯の本当の側面を示していると考えています。

ファッロヒー・スィースターニーについて総括するに当たり、彼の作風はそれ以前の詩人、即ちルーダキーやバルヒーなどのように流麗で、簡素であるというべきでしょう。現代のイラン人研究者のザッリーンクーブ博士は、ファッロヒーが過去の詩人たちから受けた影響やその作風について、次のように述べています。「ファッロヒーは、ルーダキーやバルヒーの方式を好んでおり、頌詩においてはルーダキーの方法を、抒情詩においてはバルヒーの方法を視野に入れていた。だが、しかしこれらの共通した内容を吟じる上でのファッロヒーの技能は相当に高いものであり、彼の詩を読んでみても、彼が特にルーダキーやバルヒーといった過去の詩人からどれほど影響を受けたのかが判定できないほどである」

 

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