11月 23, 2019 13:45 Asia/Tokyo
  • ソフラヴァルディー
    ソフラヴァルディー

今回は、12世紀のイランの著名な神秘主義哲学者、シェイフ・シャハーボッディーン・ソフラヴァルディーの生涯や作品、業績などについてご紹介することにいたしましょう。この哲学者は、イスラム神秘主義哲学の伝播に大変重要な役割を果たしました。

シェイフ・シャハーボッディーン・ソフラヴァルディーは、イスラム哲学の学派の1つである、照明学派の創始者とされています。彼は、テヘランの西方にある現在のザンジャーン近辺のソフラヴァルドという村で生まれました。もっとも、この哲学者の出生した年については、伝記作家の間で意見が分かれており、およそ1150年から1155年ごろの間と推定されています。

ソフラヴァルディーの生涯は、次のように大きく3つに分けることができます。まず、第1の時期には、彼が生まれ故郷のソフラヴァルドに住んでいた少年時代が含まれます。しかし、この時期における彼の状況については、あまり明らかにされていないため、彼が生まれ故郷でどのように育ち、どのような教育を受けたかについては今もって謎に包まれています。唯一分かっていることは、ソフラヴァルディーは初めて生まれ故郷で教育を受け、さらにそこで幼いながらも高い学識を習得し、ほかの全ての弟子たちより抜きん出ていたということです。

ソフラヴァルディーは、さらに学問に励むために、故郷のソフラヴァルドから、イラン北西部の町マラーゲに向かい、哲学を学びました。彼は、マラーゲに滞在していた期間中、イランの神学者ファフルラーズィーの学友であったと言われています。伝えられるところでは、このファフルラーズィーは哲学に対する最大の反対派でしたが、何年もソフラヴァルディーと共に学び、彼の死後に彼の著作の写本を与えられた際には、これに口づけし、在りし日の自らの学友を偲んで涙を流したということです。

ソフラヴァルディーは学問を完成させるため、1179年ごろマラーゲを離れ、イラン中部の町イスファハーンに向かいました。そこで彼は、オマル・ブン・サフラーン・サーヴィーの編纂した、法学、哲学、論理学に関する書物を研究、習得しました。また、彼はこの町でイランの著名な医学者イブン・スィーナーの思想に触れ、以前にも増してイブン・スィーナーのアジア哲学に陶酔しました。なお、イブン・スィーナーのある著作のペルシャ語への翻訳と、複数の論文の編纂は、ソフラヴァルディーのイスファハーン滞在中に行われたと言われています。

ソフラヴァルディーの第2の人生は、1184年より前、即ちイスファハーンに2,3年滞在した後に始まりました。彼は、旅をすることを非常に好み、こうした旅行において多くのイスラム学者や哲学者と出会い、彼らから知識や哲学を学んでいます。また、しばらくの間はイスラム神秘主義者たちと交友関係を持ち、禁欲をベースとした修行や自分の内面との戦いに没頭しました。彼は、一年のほとんどを断食で過ごしていました。彼は、修行を行った結果、修行者としての高い地位に到達したと言われています。

ソフラヴァルディーは、当時存在していた他の学派の思想に触れたいと考え、現在のトルコとシリアのアナトリア地方に向かいました。彼は、トルコ東部、シリアとの国境にある町マルディンにおいて、ファフロッディーン・アブーアブドッラー・モハンマド・ブン・アブドッサラーム・マールディーニーという哲学者と知り合い、親交を深めることになります。ソフラヴァルディーは、アリストテレス学派に属するこの哲学者のために、一部の哲学書を読み聞かせ、それらについて語り合っていました。哲学者マールディーニーは常に、ソフラヴァルディーが優れた学識と倫理的な美徳を持っていることを認めていました。こうした語らいや議論の結果、マールディーニーはいつの日かソフラヴァルディーが殺害されることを予測していたのです。

マールディーニーは、特に哲学や語彙論、医学などの様々な学問において、当時の傑出した学者の1人でした。彼はまた、当時まだ数少ないアリストテレス学派の哲学者の1人であり、ソフラヴァルディーの最後の恩師でもありました。彼は、ハキーミー・ハメダーニーの下で哲学を、またイブン・テルミーズ・バグダーディーの下で医学を学んでいます。ソフラヴァルディーは、1183年ごろまでマルディンにおいてファフッロッディーン・マールディーニーとの交友関係を続け、その翌年に現在のシリア北西部の町アレッポに向かいました。

ソフラヴァルディーは、アレッポへの到着により第2の人生に終止符を打つことになります。彼は、このとき30歳ぐらいだったと推定され、『筋道と考案』という著作を著しました。また1187年ごろには、やはりアレッポにて自らのもっと重要な哲学分野での著作『照明哲学』の執筆を終わらせています。

ソフラヴァルディーはこの時期、そして1189年から1190年ごろ、『照明哲学』という著作の執筆により名声を博していました。また、セルジューク朝の王たちの支援を受けるとともに、トルコ北部・黒海地方の町トカットなどを旅し、2年間にわたりこれらの王たちのもとで『光の書』、『支えの啓典』という2つの書を著しました。このうち、前者はルーム・セルジューク朝の王ロクノッディーン・ソレイマーンに、そして後者はエマードッディーン・アブーバクルに献上しています。

ソフラヴァルディーは、アレッポに移住してからの自らの晩年において、まずハラヴィーエという学校、それからヌーリーエという学校に入り、イスラム法学の1つであるハンバル派の法学者たちと議論し、彼らを論破しました。ソフラヴァルディーが、ハンバル派の法学者をも論破したことで、彼の名声はアレッポ市内に轟き、宮廷にまで届いたのです。アイユーブ朝サラジンの息子マレク・ザーヘルは、ソフラヴァルディーを宮廷に召抱え、自らの第1の相談役としたということです。

ソフラヴァルディーは知性にあふれ、奥深く幅広い知識を有し、哲学のそのほかの学派に対しても受け入れの精神を持ち、精神性や神秘に注目していたことから、為政者マレク・ザーヘルの宮殿に出仕していた法学者たちの嫉妬や敵愾心を引き起こすことになりました。彼らは、ソフラヴァルディーを抹殺するため、会議を開き、彼が神を冒涜する無神論者であるとの冤罪をかけ、マレク・ザーヘルに対し宗教に反する思想という罪名でソフラヴァルディーを殺害するよう求めました。しかし、マレク・ザーヘルがこの要求を受け入れなかったため、法学者たちは書簡をしたためて全員がこれに署名し、アイユーブ朝サラジンの下に送りました。当時、サラジンは十字軍からシリアを解放したばかりで、自らの信用を保つために宗教法学者に認められる必要があったため、やむなく彼らの要求を呑み、自分の息子であるマレク・ザーヘルにソフラヴァルディーを殺害するよう命じます。マレクザーヘルは、父親の命令に従うほかなく、1191年にソフラヴァルディーを投獄しました。12世紀のイスラム学者イブン・シャッダドによれば、1191年に当たる、イスラム暦587年のメッカ巡礼の月の月末の金曜日、礼拝の終了後にソフラヴァルディーの亡骸が監獄から引き出された、と言われています。

ラジオをお聞きの皆様、今夜はここで時間がきてしまいました。次回のこの時間も、どうぞ、お楽しみに。

 

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