イランの名声、世界的な栄誉
モハンマド・ナジーリー・ネイシャーブーリー(2)
今回は引き続き、16世紀から17世紀にかけてのイランの詩人、ナジーリー・ネイシャーブーリーについてお話しすることにしましょう。
ナジーリー・ネイシャーブーリーは、現代詩においても、亡くなった後にも、深い影響を与えた詩人です。今夜はナジーリーの地位についてみていくことにしましょう。
前回は、モハンマド・ホセイン・ナジーリーが、16世紀の後半にイラン北東部のネイシャーブールに生まれ、この町で初歩的な文学などの学問教育を受けたとお話しました。彼はまた、大変若い頃に自分の詩の才能を試すため、イラン中部のカーシャーンに行き、その後イラクに渡り、詩会の中で、同郷の詩人と共に名声を得て、最終的に快適な生活と安全のために、インドに渡航しました。
ナジーリーはインドのアグラに行き、ムガル朝の王、ジャハーンギールの時代の総督だったアブドルラヒームハーンの関心を得ることができました。ナジーリーは、アブドルラヒーム・ハーンの側近として使えるよう誘われ、彼もこの機会を待っていたため、喜びとともにその呼びかけに応じ、アブドルラヒーム・ハーンの側近となりました。自身が詩人でもあったアブドルラヒーム・ハーンの宮廷は、多くの詩人や芸術家を擁する場所となっていました。
ナジーリーはアブドルラヒームハーンの宮廷で、非常に高い地位を得ました。ナジーリーはアブドルラヒーム・ハーンやジャハーンギールに関する頌詩を詠み、莫大な富を得ました。ナジーリーはこの富を溜め込むのではなく、イランからの移住者の支援に使っていました。
ナジーリーのイラン人移住者、特に詩人や芸術家の支援は、こういった移住者が彼をインドにおけるイラン人の親としていたほどものでした。おそらく、彼のスタイルが驚くべき形で広まった理由のひとつは、詩人に対して親切にしたことでしょう。詩人たちはジャハーンギールやアブドルラヒーム・ハーンをたたえるように、ナジーリーを賞賛し、報償を受け取り、その詩のスタイルを賞賛しました。一部の評論家は、これはナジーリーのスタイルが広まった主な要因だとしています。
ナジーリーはインドに長期間滞在し、ムガル朝の一族の支援を得たことにより、莫大な富を築き上げ、1612年、インド西部のグジャラートで死去し、そこに葬られました。彼の死について、「ペルシャ語詩人たちは彼の詩によって孤児となった」とされています。
ナジーリーは独自の様式を持つ詩人とすべきでしょう。彼は市井の詩人であり、様々な形で、作品を提供し、あらゆる分野で成功してきました。彼が現れた時代は、いくつかの特徴がありました。まず、この時代は、新たな表現や革新が、ペルシャ語の主な特徴とみなされていました。ペルシャ語詩は、常に新鮮さを保ってきましたが、唯一、その歩みが止まった時代は、サファヴィー朝から、近代までの間で、イラン社会が発展することで、詩が進化したのです。
しかし、ナジーリーが生きていた当時の状況は違っていました。16世紀、ペルシャ語には極端な傾向が現れ、17世紀、18世紀においては、それがさらに進み、すべての詩の単語や部分は、そういった新たな詩人のためのものとなっていました。そういった、新たな形式が、ペルシャ語詩にあふれていました。
こういった極端に新たなものは、インド様式の詩の一部に伺え、詩や詩人は、不自然な形でその表現を新しくし、結果として、詩人と読者のつながりは断絶し、インド様式は非難され、隅に追いやられました。
ナジーリーも、その新たな表現を自身の売りとしていましたが、その新たな表現を、自身の詩を高める中で使っており、また、新たな表現のために努力する中で、先人の伝統をも詩の中で維持しました。ナジーリーの新たな表現とは、それによって読者との距離を生み出さないものだったのです。彼は厳選された古い伝統を守ることで、詩を新しくあると同時に健全なものにしました。そのような特徴は、過激な新しさを求める時代において、忘れ去られていたものです。
ナジーリーは、ある面では、15世紀から16世紀にかけての詩人バーバー・ファガーニーの再来だったとされ、ある面では簡素なスタイル、そしてもう一方では、インド様式に結びついているという2面性を持っていました。このため、この2人は、現代詩人や後世の詩人に明確な形で影響を及ぼしました。
15世紀から16世紀にかけて流行していたスタイルは、比較的簡素かつ、テクニカルでなく、また一般の話し言葉に近いスタイルで、17世紀までイランで存続していました。この様式は、イラク様式とインド様式の間の時代に出現しました。
ナジーリーは、サファヴィー朝、そしてムガル朝の詩におけるすべての長所を備えており、自身のスタイルも持っている詩人となりました。彼はサファヴィー朝の以前の健全性を維持していました。それはサファヴィー朝時代の詩の中ではは次第に忘れられ、詩人は新しい表現にこだわるにつれ、その表現や言葉の健全性を軽視していました。この状況は、インド様式が出現する前のことです。
ナジーリーは、一部の詩において、非常に簡素で、誠実かつ口語に沿った言葉を用いています。ナジーリーの詩を口ずさんでみると示されるのは、彼の言葉の驚くべき流麗さです。ナジーリーはハーフェズに影響受けているとしていますが、彼の詩は、頌詩も抒情詩も、13世紀の詩人サアディーの詩を思い起こさせます。
ナジーリーは、詩の半分においては、まったく違った印象を示しており、彼の一部の詩により、彼の詩はインド様式の詩とされていますが、こうした中、文芸評論家は、このような彼の詩は正確にはインド様式の詩ではなく、インド様式につながる新たな詩の様式だとしています。ナジーリーはこういった詩においては、生活に即した率直な言葉を使うのではなく、想像によるものになります。これは、インド様式とは異なっており、ナジーリーは健全な言葉を守っています。
こういった想像による表現は、たいていの場合、実際にあった事柄や個人的な事柄を物語っており、これもまた、そういった簡素なスタイルとなります。比喩表現の画一化や平均的な文体は、インド様式の際立った特性ですが、このような特性は、ナジーリーの詩には見られません。つまりナジーリーは、インド様式の前の簡素なスタイルに属しているのです。
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