May 30, 2020 13:43 Asia/Tokyo
  • アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー
    アブーターレブ・キャリーム・カーシャーニー

前回まで、16世紀から17世紀にかけてのサファヴィー朝時代の詩人で、インドに渡り、インド様式の詩の第1人者とされているアブーターレブ・キャリームについてお話してきました。

インドに渡ったイランの思想家は、一部の時代において数多く見られます。それではインドに渡ったイランの詩人についてお話することにしましょう。

移住とは、単に地理的な集団移動をさすのではなく、文化的、社会的な移動、という意味も含まれています。様々な環境の違いにより、よりよい生活のため、あるいは不適切な状況から逃れるために、移住を行います。

インドは、経済、文化、政治的な点から、移民を受け入れてきた地でした。この地域は、自然の恩恵や豊かな富を有していたことから、侵略者の注目を浴びる一方で、また、文化的、民族的な多様性により、常に様々な集団によるつながりが築かれ、思想が生まれた地域でした。

政治的な点から、数千年にわたってインドを統治してきた体制は、この移住により構築されました。デリー・スルタン朝やデカン高原の王朝、そして時にはトルコ系、時にはアフガン系、あるときにはムガル朝のティムールの一族といった形で、多くの統治体制は、地元の人間ではなく、移住者が運営していました。

16世紀から17世紀の歴史家、モハンマド・ガーセム・ヒンドゥーシャーは、13世紀半ばのインドの奴隷王朝の王、ギヤースッディーン・バルバンの宮廷におけるノウルーズ、イラン暦の新年の式典について、次のように記しています。

「馬乗りを行う日、イラン南東部スィースターン、現在のアフガニスタン中部のゴール、現在のウズベキスタンのサマルカンド、イラン中部のロルや西部のクルド、アラブから来た500人の兵士が、抜き身の鋭利な刀を肩に置き、盛大に祝った。ノウルーズの日をイランの王のように過ごしたのである」

インドに移住した様々な集団の中で、イラン人は2つの国の歴史や文化、社会的な深い結びつきにより、一定の地位を得ていました。イラン人の移住者の第1のグループはゾロアスター教徒で、彼らは8世紀、サーサーン朝が崩壊した後、イランからインドに移住しました。これらの移住者の子孫は現在も、祖先の慣習に従って、インドで生活し、パールシー教徒として知られています。イランの歴史研究者、シャフリヤール・ナガヴィーによれば、この種の移住者の数は非常に多く存在し、人類社会や学問に大きく貢献したということです。

8世紀はじめにインドがイスラム教徒に支配された後、多くのイスラム教徒がインドに移住しました。インドに移住したイラン人のもうひとつのグループは、10世紀から11世紀のガズナ朝の王サブクテギーンとマフムードによる支配を受けて移住しました。ガズナ朝の為政者や兵士は、平定した土地を保持するためにインド、特に現在のパキスタンのラホール、ムルタン、スィンド地方にとどまり、ラホールを首都として、多くの兵士をそこに集めました。

近代イランの文学者、マレコッショアラー・バハールによれば、2つの理由により、移住者はイランにとどまるより、移住することを選び、その多くがインドに移住したとしています。その理由のひとつは、サファヴィー朝関係者の振る舞いにあり、もうひとつはインドの宮廷における物質的な利益だとしています。このために様々な芸術や技術を有する多くの人がインドに渡ったということです。また、ムガル朝の皇帝はティムールの子孫なので、彼らの故郷はイランの地だとしており、イラン人を同じ言葉を話す同郷人だとしていました。当時、イランの首都とされていたイスファハーンより、ムガル帝国の首都だったデリーのほうが、ペルシャ語詩は盛んに詠まれていたのです。

様々なグループがインドに移住しました。第1のグループは、学者や筆を扱う人々で、社会に充満する閉塞感により、インドの宮廷が比較的思想の点で自由だということを聞き、苦労して移住し、故郷を離れたのです。第2のグループは神秘主義者で、哲学的な事柄により、彼らは神秘の地であるインドにひきつけられました。彼らの一部は、ムガル帝国の宮廷におけるイスラム的傾向から、イスラムの宣教活動を行うため、移住しました。第3のグループは、地位を得るために移住した人々であり、彼らの一部は宮廷で高い地位を得て、莫大な富を手に入れました。

ムガル帝国の一族がインドを侵略したことで、多くの文学者や弁士がイランからインドに移住しました。初代皇帝バーブルがラホールを平定し、ムガル帝国を築きました。バーブルの宮廷には、イラン人の詩人もいました。2代目皇帝フマーユーンが身を寄せていたサファヴィー朝のタフマーセブ1世のもとから離れ、インドに戻った後、詩人の一団や、クズルバシュと呼ばれる神秘主義系の集団がフマーユーンに同行し、インドに渡りました。このクズルバシュの集団は、ムガル朝の宮廷内で高い地位を得ました。また、デリーだけでなく、ラホール、インド北部のラクナウ、アグラ、パンジャブ地方やカシミール地方は、ペルシャ語文学の中心地となりました。

ムガル朝の宮廷におけるイランの詩人

モハンマド・ガーセム・ヒンドゥシャーはデカン高原に存在していたバフマニー朝の王、マフムード・シャーについて語り、彼はイスラム法学者たちとともに過ごし、アラビア語とペルシャ語の詩人をデカン高原に呼び寄せていたとしています。イランの偉大な詩人ハーフェズのインド招聘と、彼の決定、その後悔についても、彼は自身の歴史書の中に記しています。

また、13世紀のイランの詩人サアディーの、奴隷王朝の王、ギヤースッディーン・バルバンの息子による招聘も、インドの王がペルシャ語文学に傾倒していたことを示すものです

およそすべての詩人が、ムガル朝の宮廷に魅かれ、その恩恵にあずかろうとしていました。また、歴史家、辞書編纂者、作家なども、そういった人々の中に含まれていました。インドやパキスタンでペルシャ語文学やペルシャ語の辞書が広く記されていたことは、このことを裏付けています。

 

ラジオ日本語のユーチューブなどのソーシャルメディアもご覧ください。

https://urmedium.com/c/japaneseradio

https://twitter.com/parstodayj

https://www.instagram.com/parstodayjapanese/

 https://soundcloud.com/user-614960283

タグ