イランの名声、世界的な栄誉
ムハンマド・ビン・ジャリール・タバリー(1)
今回は新たに、歴史家でイスラム法学者、ハディース学者のムハンマド・ビン・ジャリール・タバリーについてお話しすることにしましょう。
タバリーは838年、イラン北部のアーモルに生まれ、のちに、イスラム史における最初の偉大な歴史家、そしてコーラン解釈者になりました。彼の父は、アブージャアファル・ムハンマド・ビン・ジャリール・タバリーという人物でした。
タバリーに関する最も古い、比較的完全な情報は、10世紀に、タバリーの死後67年に記された、イブン・ナディームという人物が記した貴重な目録に掲載されています。イブン・ナディームは、タバリーについて説明を述べるとともに、彼の作品や、彼の宗派に従う人々、多くの弟子の名前を提示しています。
タバリーは非常に能力のある、希少な人物でした。彼は学問を全身全霊で愛し、全生涯を学ぶことに費やし、このため、結婚しませんでした。
また、「私は7歳のときにコーランを記憶し、8歳で金曜礼拝の導師になり、9歳のときに、ハディースに関する著作を記し始めた」と語っています。そして、彼の父親は、幼いときから、宗教学を学ぶことの重要性を示していたとしています。
タバリーは、12歳まで、初等教育を故郷のアーモルで学んでいました。12歳から、父の勧めにより、より多くの学問を学ぶため、旅に出て、はじめに現在のテヘランの近郊にあるレイを訪れました。当時、レイはイランのもっとも大きな町のひとつであり、当時の学問教育の点から、ほかの都市より卓越していました。
タバリーはレイで、ハディース学、つまり伝承学をムハンマド・ビン・ハミード・ラーズィーという人物から学び、預言者ムハンマドの戦いの歴史をムハンマド・ビン・イスハーク・ワーゲディーという人物から学びました。タバリーは、学問に対する強い愛を、次のように語っています。
「私はアフマド・ビン・ハマード・ドゥラービー(読み要確認)から歴史を学び、毎日このために、レイから近郊の村に住んでいたアフマドのところに行き、すぐに彼のところからレイに戻った。また、狂ったかのように、ムハンマド・ビン・ハミード・ラーズィーのハディース学の授業にも出ていた」
タバリーは、アブーアブドッラー・アフマド・ビン・ハンバルの授業に出るため、レイからバグダッドに向けて旅立ちましたが、バグダッドについてまもなく、アフマド・ビン・ハンバルがなくなりました。タバリーはバグダッドからバスラ、クーファといった町に赴き、ハディース学を当時の優れた師から学び、その後バグダッドに戻りました。それから、イスラム法学者として、教令を出していました。
タバリーの研究者精神はバグダッドでも穏やかだったということはありませんでした。チグリス・ユーフラテス川沿いのルーダーンという場所に滞在してしばらくして、学識ある人と会うために、エジプトに行きました。彼はこの旅で、シリア、ベイルートに滞在し、西暦867年、当時、トゥールーン朝が樹立された時期にエジプト入りしました。タバリーはこの地に3年間滞在し、エジプトのフスタートで、その地の一部の学者に弟子入りし、多くのハディースを記しました。
タバリーは多くの旅の中で、旅行記を記しており、その旅行記には、前の時代の歴史や地理について調べられています。また、この旅の中で、多くのイスラム世界の旅行家と会い、多くの情報を彼らから入手しました。彼は、エジプトに3年間滞在した後、シリア、バグダッドに戻り、しばらくしてから、故郷の人に会うため、タバリスターンに向かい、903年にアーモルに帰りました。タバリーはアーモルが勉強や研究を続ける上でふさわしい環境にないとして、バグダッドに戻り、そこで研究を続けました。
タバリーはバグダッドで、イスラム法学、歴史学、ハディース学などを修め、弟子も教育していました。彼は、歴史書をアラビア語で記し、『タバリー史』として知られる歴史書の執筆を始めました。彼は毎日、40枚分の原稿を記し、40年近くをただ歴史書を書くことだけに費やしました。
タバリーは48歳のとき、分散していた旅行記を編纂し、65歳から、バグダッドで連続して、分散していた著述を23年かけて編集しました。この作業は彼が生きている間に終わりました。
タバリーは歴史書を書くとともに、アッバース朝のカリフ・ムクタフィーの依頼により、ワクフ、つまり寄進に関する書を記しました。この書は、それまでの時代のすべての研究者やイスラム法学者の見解の選集となっています。また、預言者ムハンマド以降のカリフの生涯と、シーア派初代イマーム・アリーを預言者ムハンマドの後継者に宣言したガディールの出来事の正当性の証明についての本をしるしており、これは、イマーム・アリーの長所に関する記述で終わっています。タバリーは生涯の中で、貴重なコーラン解釈書を記そうともしていました。
タバリーと同時代の優れた歴史家や研究者は、彼が学問の道において、真理を支持する中で、決して他人のために真実を捻じ曲げなかったことを認めています。彼は誰かを恐れることも、現世の地位を追い求めることもなく、このため、嫉妬する人々や無知な人々から、多くの困難を強いられました。しかし、当時の宗教的な人々や、学識ある人々は、敬虔さなどの彼の長所を認めていました。彼は、生涯にわたり、現在のイランのマーザンダラーン州付近にあたるタバリスターンに、父の遺産として残された土地からのわずかな収入で暮らしており、政府から何の地位も受けませんでした。イラン近代の優れた詩人、マレコッショアラー・バハールは、タバリーの道徳的特性について、次のように語っています。
「学問の人だったタバリーは、道徳において極めて慎み深く、亡くなるまで、禁欲と崇拝、自立をまったくおろそかにすることなく守り続けた。彼は極めて毅然とした、独創的な感性を持った、禁欲的かつ敬虔な人物で、大きな影響力をもっていた。しかし、彼に嫉妬するものや、彼を宗教的な異端者だとする人物には大変苦しめられていた。彼が死んだときにも、史料は、彼を悪く言っていた人物がいたことを語っている。彼は、自身を異端とした人々以外、すべての人を許した、と語っていた」
タバリーの宗教について、さまざまな見解が存在します。一部は、彼がタバリスターン出身だったことから、シーア派のイスラム教徒だったとしており、一方で一部は、スンニ派だったとしています。しかし、彼の作品や同時代の人々によれば、タバリーはイスラム法学を修めた後、当時の主流の法学派からは背を向け、ジャリーリー派という独自の法学派を作ったのではないかとされています。彼に従うものは、ジャリーリー派と呼ばれていました。イブン・ナディームは、資料の中で、タバリーの法学派に従った多くの法学者や思想家の名前を記しています。
タバリーは923年の2月、バグダッドにて死去しました。彼は自宅に埋葬されました。中世の歴史家イブン・アシールは、自身の歴史書『完史』で次のように記しています。
「タバリーが死去したとき、人々が彼の葬儀を妨害し、彼は異端者だと言った。この狂信的な行動は、ハンバル派の人々に見られた。この敵意は、タバリーが道徳に関する本をしるし、その中で、法学の大家について扱い、『ハンバル派の法学者、アフマド・ブン・ハンバルは法学者ではない。ハディース学者だ』と語っていたことからくる。この記述は、ハンバル派の人々を怒らせ、タバリーに対する敵意を生んだ。当時、ハンバル派の人々はバグダッドに多数存在していた」
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