イランの大学と学術機関の創設の歴史
第一回目の今回は、イランの大学と学術機関の創設の歴史についてお話ししてまいりましょう。
イランの文明の歴史を紐解くと、科学や技術においてイランが貴重な役割を果たしてきたことがわかります。イランは戦士や勇者のみならず、長く世界に影響を及ぼしてきた偉大な思想家や賢者を輩出しています。こうした国の歴史を振り返ってみると、イランに強力な政府が樹立されると、文化や学術、文学に注目が寄せられ、教育施設が設立されたことがわかります。
一部の文献は、ジョンディシャープールを世界の最も古い大学として挙げています。この機関は、昔の世界の最も重要な教育・研究施設であり、多くの学者や医師がそこで教えたり、学んだり、または医療行為を行ったりしていました。そのためイランは昔から世界の学術の出どころとしてとらえられていました。
この番組では、まず初めにイランの大学や学術機関の設立とイランで大学が発展を遂げていった推移を検討し、その後、イランの現在の高等教育システムについてお話ししてまいります。さらに番組の中で、外国人留学生を受け入れている大学とともに、イランの最も権威ある大学をご紹介することにいたしましょう。
古い時代から残っている様々な文献から、古代イランには高等教育システムが存在していたことがわかっています。アケメネス朝時代には、エリートを教育するための特別な学校や一般向けの学校がありました。アケメネス朝のダーリユーシュ王の時代には、医学専門の学校がありました。さらにレイ、アゼルバイジャン、バルフに高等学校がありました。
サーサーン朝時代にも高等教育機関が存在しました。ナスィービーン文化会館もサーサーン朝の監督の下で設立された最も優れた教育機関の一つで、そこでアテネから追放された学者が医学、数学、天文学の研究や教授に勤しんでいました。また古代イランで発展を遂げていた学校としてサールーイェとレイシャフルの名を挙げることができます。
こうした教育の経験、こうしたイランの学術的な開花を伴う過去はすべて、ジョンディシャープールに集められ、最高潮に達しました。こうした教育の大機関は、サーサーン朝のアルデシール・バーバカーンの時代に設立され、アヌーシールワーンの時代に、その聡明な大臣、ボゾルグメフルによって拡大されました。世界最古の大学と言われるジョンディシャープール大学は、6世紀、シューシュの東部にあったジョンディシャープールの町に設立され、その入り口にはこのように書かれていました。「学問と知識は武力を超える」
ジョンディシャープール大学の特徴の一つに、開けた空間とその学術的な多様性がありました。ジョンディシャープールでは、宗教や国籍による制限はなく、キリスト教のネストリウス派やギリシャ・インドの医者の教育や研究活動に障害はありませんでした。このほかの特徴として、世界的な学術交流や国際関係の存在がありました。世界中から学者がこの大学に集まり、イラン人もまたインドやギリシャに派遣され、彼らの教育の経験を生かしていました。
ジョンディシャープールはまた、翻訳の中心でもありました。この大学で多くの作品が、ヒンディー語などからパフラヴィー語に翻訳されました。さらにシリアのキリスト教徒の医者が医療や哲学の書物を翻訳していました。
イスラムが誕生すると、ジョンディシャープールはピークを迎えました。その当時最も重要な医療の中心とみなされていたこの大学は、様々な国の学者らが集まる場所となりました。この医療機関では、学者らがギリシャ、インド、イランの医療の伝統を融合させ、イスラム医学の下地を整えました。イスラム期の病院もまた、多くがジョンディシャープールの病院の原則に基づいて作られました。さらに多くの人はイラン人がこれらの病院で病院の治療方法を編み出したと考えています。イスラムの初めての医薬品もまたこの医療機関で誕生しました。
ジョンディシャープールの名声は、バグダッドのバイトルヒクマといったイスラム後の教育施設の創設に大きな影響を与えました。基本的にイスラムとギリシャの医学は、特にジョンディシャープールの大学で結びつきました。アッバース朝時代にバイトルヒクマが設立された後、イスラムの領土における高等教育は拡大し、セルジューク朝時代に、バグダッド、バルフ、ネイシャーブール、ヘラート、イスファハーンといった複数の都市で、ネザーミーヤ学校が開設されました。マラーゲでもハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィーが大きな研究所を作り、その図書館には世界各地から集められた4万冊もの蔵書が収められていました。
こうしてイスラム期にも、イランで学問は繁栄し続けました。8世紀末、ムハンマド・イブン・ムーサーという世界的な数学者がこの地で生まれました。ハーラズミーと呼ばれるこの学者の作品は世界の学術遺産に多くの影響を及ぼしました。このイランの学者は、命題の解法を指す「アルゴリズム」を作成し、代数を完成させ、その代数の書物はラテン語に翻訳され、中世ヨーロッパの数学の発展に深い影響を及ぼしました。
ヨーロッパがまだ学問の発展を遂げていない中世の文化的暗黒の時代に、イスラム世界、とくにイランでは学問のともし火が勢いを増し、アブーレイハーン・ビールーニー、ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィー、ザキャリヤ・ラーズィー、ジャーベル・イブン・ハイヤーン、イブン・ヘイサムといった学者らが、創造の美しさと複雑さを発見しました。この時代、ガリレオが地球の公転を発見する前に、アブーレイハーン・ビールーニーは天文学の百科事典を書き、その当時すでに地球の公転を予想していました。
は、13世紀、すべての生き物は変化し、その体の変化は次世代にも引き継がれるという理論を提示しました。ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィーは、フランスやロシアの学者よりも500年早くこの理論を発見していたのです。
ザキャリヤ・ラーズィーは医学の分野で、アルコールと硫酸を発見し、応用物理学の基礎を築きました。このイランの学者は、自らの経験を書物に書き残しています。また彼の弟子は、ザキャリヤ・ラーズィーの医学書をペルシャ語で書きました。ジャーベル・イブン・ハイヤーンは、イランの有名な化学者で、その当時の発明の父として知られています。彼の発明には、布の染色における染料、草花や薬草のエッセンスの抽出、火薬が挙げられます。
イブン・ヘイサムは、西洋ではアルハゼンという名で知られており、光学の父として知られています。この学者は、レンズ、鏡、光の屈折と反映についての書物があります。
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医学では、イブン・スィーナーもまた様々な問題について書物を残しています。彼の医学典範は数百年もの間、ヨーロッパで権威ある書物として使用されていました。このイランの大学者の影響は非常に大きく、イブン・スィーナーの後、彼ほどの名声を得ることができた学者はいませんでした。このほか、この時代の学者に、ゼイノル・アーベディーン・イスマイール・ジョルジャーニーがおり、彼はこの時代の最大の医学書を編纂し、刊行しました。
イランの学問の歴史を紐解いてみると、イラン人が植物学、薬学、化学、動物学、鉱物学といった他の様々な分野でも発展を遂げていたことがわかります。私たちが今日科学技術の様々な分野で目にしている発展は、多くの学者の努力のたまものなのです。彼らはかつて多大な努力により、学問や知識の炎をイランでともし、その勢いを増しました。次回の番組ではこのことについてお話しすることにいたしましょう。