May 16, 2016 16:35 Asia/Tokyo
  • セレウコス朝とアルサケス朝時代の服飾

今回は、セレウコス朝とアルサケス朝時代の服飾についてお話ししましょう

アケメネス朝が、マケドニアのアレクサンダー大王の攻撃を受けた時代です。その後、しばらくの間、イランの広大な地域で混乱が続きました。

実際、過去の全ての文明に影響を与えていたアケメネス朝の消滅は、それほど簡単なことではありませんでした。紀元前4世紀、アケメネス朝は大きな都市や建物を建設し、通りは往来が盛んでした。発展した財政システムと華やかな芸術作品は、イランの文明に驚くべき進歩を与えました。しかし、マケドニアのアレクサンダー大王がその全てを破壊に向かわせました。とはいえ、アケメネス朝はすでに内部から弱まっており、宮廷の人々の贅沢趣向や快楽主義は、人々の不満と階層格差を引き起こしていました。しかし、アレクサンダーは、その野蛮な性質により、イランの文明と文化を破壊したのです。

アレクサンダーは、イランとギリシャの民族的な融合を試みようとしました。そのため、自分はイラン人の女性と結婚し、司令官たちにも、イラン人との結婚を奨励していました。しかし、イランの文化へのギリシャの文化や芸術の融合はなかなか進みませんでした。発見された芸術作品は、当時の多くの作品が、アケメネス朝の芸術の影響を受けていることを物語っています。

イラン西部のナハーヴァンド地方で発見された銅像は、この時代、人々が銅による芸術作品を好んでいたことを物語っています。しかし、ゼウスやアテナの像は、アケメネス朝の様式の帽子を被っています。それらの服はギリシャ人の服のように独特の形を持っておらず、縫い目や装飾のない一枚の布になっていました。

とはいえ、一部の例から、ギリシャの芸術作品に裸体主義がある程度、本質的な影響を与えたことが分かります。アケメネス朝時代に非難され、恥ずべきだと考えられていた裸体主義は、ギリシャ人やセレウコス人には認められていました。そのため、ギリシャやイランの芸術と平行して、その両方が混ざり合った芸術の種類が生まれました。これは、イラン人の服装とギリシャ人の外見、その宮廷の華やかさが融合したものでした。

イランでは、アレキサンダーの後継者たちの時代、芸術家たちはギリシャ人とイラン人の満足を得ようとしていました。ギリシャ芸術の特徴を有するアポロン山の星のデザインは、王のシャツに見られますが、一方で、イラン人の注目を集めていた赤いバラのデザインは、装飾として帽子につけられていました。セレウコス朝のアンティオコス1世は、アケメネス朝の冠をモチーフとした冠を被っていますが、その顔にはギリシャ人のようにひげがありません。パールス人のような革靴をはき、それはふさで飾られています。

通常、皇帝の服装は、宮廷の人々と同じように独特の色をしており、白い色の王冠だけが特徴でした。イランでは、天然素材が豊かであったため、織物業やじゅうたん産業が発展し、じゅうたん、衣服、装飾品はイラン以外の土地にも送られていました。しかし、セレウコス朝の時代、一族の争いや統治の分割により、これらの多くの芸術は停滞しました。歴史資料によれば、この時代の服装は新しいデザインを持ち、上半身はぴったりし、下半身はゆったりとしたスタイルでした。腰には紐がまかれ、馬に乗るときに楽なように、服のすそを腰の上まであげていました。

アケメネス朝の芸術や産業に続き、500年以上もの間、芸術活動にはほとんど変化が見られませんでした。しかし、その後、サーサーン朝の産業が始まります。その原因はアルサケス文明の中に探ることができます。パルティア人は、アーリア人にルーツを持つ移民で、カスピ海沿岸でテント生活を送っていました。彼らは乗馬に長けており、弓を使っていました。紀元前255年ごろ、この部族の長はセレウコス朝に対する人々の不満を利用し、広大な地域を統治下に収めました。その後、その後継者による統治が拡大し、ギリシャ人とセレウコス人の影響力は日々縮小していきました。

イラン北西部でパルティア人の墓が発見されたことで、当時の人々の服装や文明、文化に関する知識が高まりました。これらの墓からは、20センチの長さの独特の布が発見されています。この布は赤い色をしており、くずれた十字がデザインされ、その傍らにはギリシャのマークが存在します。また別の部分には、色とりどりのチェックの模様が見られますが、これはこの時代の人々の好みを示しています。

布や衣服のデザインを研究する大学教授のホッラミー氏は、アルサケス朝の男女の衣服について、次のように語っています。「彼らの服装の特徴は、ひざまでの長さのシャツとベルトを身に着け、幅の広いズボンをはき、それをブーツの中に入れていた。この靴のつまさきは少し上に反り返っている。彼らの服装のもうひとつの特徴は、長くて幅の広い前の開いた上着だった。この他、乗馬をする人々は、ひだのあるシャツと幅の広いズボンをはいていた」

ホッラミー氏はさらに、このように続けています。

「パルティア人は膝まで届くシャツを着て、その襟は丸く、襟の前の部分は下へと裂け目があった。これは襟が首を絞めないようにするためだったようだ。この服の袖は手よりも長く、指先まで完全に多い尽くしていた。袖は手首から先がすぼまっていてひだがあり、ベルトを締めていた。パルティア人は、細かいひだのついた長くて幅広のズボンをはいていた。ズボンのベルトはひだを伸び縮みさせることができるよう、最大でも3メートルあった」

パルティア人は、芸術に変化をもたらした人々であり、さまざまな芸術を民族的なものにしようとしていました。人物同士が対面しているように見せるのは、パルティア人の芸術の特徴で、それまでには見られなかったものでした。また、シルクロードによって中国と結びついていたため、彼らの衣服には絹や装飾が用いられていました。

ズボンは形の点で、メディア人のそれに似ていましたが、それよりもはるかに幅が広く、建築に見られるシンボルや装飾が見られていました。パルティア人のショールもメディア人のものに似ていましたが、幅が広い上、中央や片方の肩にボタンがあり、それで両方の肩をつなげられるようになっていました。このショールは、多くが刺繍で装飾されていました。非常にシンプルな帽子も用いられていました。これはパルティア人の特徴で、彼らの帽子の使用の始まりでもありました。

パルティア人の服装の第二の特徴は、フェルト製の長い帽子です。これはシンプルなデザインで、先がとがっていました。また、宝石で装飾された帽子もありました。特別な場合には、アケメネス朝の王たちに似た冠も使われていました。当然のことながら、戦いの際には、鉄製の帽子が用いられていました。