May 16, 2016 17:00 Asia/Tokyo
  • ダーロルフォヌーン
    ダーロルフォヌーン

今回の番組では、各大学の発展の推移と新しい高等教育システムについてお話しすることにいたしましょう。

イランの高等教育の新たな変化は、19世紀の世界における新たな学術的変化と共に始まりました。イラン社会の学者、慈善家、新たな思想家が西側に直面し、西洋文明の急速な発展を目にし、伝統的な教育方法の見直しを考え始め、世界の新たな経験を用いることで、彼らの国の問題を改善しようとしました。

 

新たな科学技術の習得の必要性によりイラン人は、何よりもまず、過去の知識と新しい技術に向かい、それらを組み合わせることで豊かな知識ともともと持っている能力を使って、知識を生産しようと努めました。このため、19世紀の初めから、彼らは新たな技術の習得のために国外に派遣されるようになりました。

 

この新たな措置により、軍事、歴史、数学、天文学、地理関連の書物や旅行記の翻訳が幅広く行われ、ガージャール朝の有名な為政者アミール・キャビールの尽力により、19世紀後半にダーロルフォヌーンが建設されました。ダーロルフォヌーンは新たな教育方法による最初の教育施設で、ロシアやオスマン帝国での新たな教育の経験を取り入れることで、創設されました。ダーロルフォヌーンが創設される前、国外の学問を習得するために数々の活動が行われており、それ以前に多くの人が知識習得のためにヨーロッパに派遣されていました。こうした措置は、イランにおいて新たな教育の幅広い下地を整えました。

ダーロルフォヌーンの学生たち

 

ダーロルフォヌーンは1852年、30人の生徒と7人のオーストリア人教師、そしてフランスへの留学経験を持つ数人の翻訳者によって開始され、次第に物理や化学、薬学の実験所や印刷所、図書館、食堂を備えていきました。最初に教えらた科目は歩兵などの兵科であり、その後他の科目も追加されていきました。

 

歩兵、騎兵、火砲、技術、医療、外科、薬学、鉱物学といったものがダーロルフォヌーンで教えられていた科目でした。またフランス語、自然学、数学、歴史、地理といったものも教えられていました。後に、英語、ロシア語、絵画、音楽も取り扱われるようになりました。

 

ダーロルフォヌーンの高い地位により、この学校の学長たちは通常、政府の要人の中から選ばれていました。この中で、ナーセロッディーン・シャーのおじであるエーテザードッサルタネとレザー・ゴリーハーン・へダーヤトがダーロルフォヌーンの最も有名な学長であり、ダーロルフォヌーンの黄金時代は彼らによって運営されていました。現在ダーロルフォヌーンは、博物館や教育資料センターとして文化、研究活動を行っています。

ダーロルフォヌーン

 

ガージャール朝のダーロルフォヌーンの設立からおよそ10年後、タブリーズでロシュディーエ小学校が創設されました。その後少し経ってから、イランで立ち上がった三番目の近代的な学校とされるビールジャンドのショーキャティーエ学校が設立され、それを受けて、複数の学校が開校しました。そしてまもなく1885年にネザーム学校、1899年に政治学学校が外務省の管轄のもとで開設されました。

 

ガージャール朝の滅亡により、パフラヴィー朝が台頭し、擬似近代化と西洋文化の模倣がこれまで以上に進められました。1926年、テヘラン大学の創設が国民評議会の議員によって提示されました。その後の1932年、アメリカンカレッジがニューヨーク州立大学により、イランで活動を開始しました。アメリカ人のサミュエル・マーティン・ジョーダン博士は、この大学予科機関の発展において大きな貢献をした人物の一人で、このため彼は「イランの新教育の父」と呼ばれていました。

テヘラン大学

 

テヘラン大学が創設される前、イランの学術機関は個別に活動していましたが、1934年、上級学校を一箇所に集め、イランの大学教育の基盤を強化するために、テヘラン大学が設立されました。この大学はダーロルフォヌーン、政治学学校、医学学校、農業・村落産業学校、モザッファル農業学校、鉱業・芸術学校、法律高等学校などいくつかの高等教育機関の合併により、現在のテヘラン市にあるラーレ公園の南にあった美しい庭園の中に建設されました。テヘラン大学はフランスの高等教育機関をモデルにして設計され、テヘラン大学の建物の設計はフランス人によって行われました。

 

テヘラン大学の創設により、イランの高等教育は、この大学と戦争大学、アバダンの石油大学によって運営されていました。1946年からタブリーズ、イスファハーン、シーラーズ、マシュハド、アフワーズで大学が設立された後も、1951年の終わりまでこの3つの大学が権限を持っていました。1951年から各種機関の専門性の必要性を受け、これらの大学から独立した民間、国立の高等教育学校が設立されました。これらの機関は1970年代にピークを迎えました。

シーラーズ

 

1979年のイスラム革命の勝利を受け、革命後の混乱、大学の一時閉鎖、イランイラク戦争、様々な制裁にもかかわらず、イランの高等教育は質量ともに目覚しい発展を遂げました。革命後の大学生の数は26倍に増加しました。さらに、学科の数も8倍に増え、500以上の医学研究機関ができ、教育施設は5倍になり、1979年に341本だった論文の数がここ数年は年間2万本に増加しています。

 

現在、イランの高等教育は、政府と非政府系の二つに分けられています。政府部門には、全日制、定時制、通信制などが含まれます。また非政府系部門には、イスラム自由大学、私立大学が含まれます。概してこの二つの部門では3000の学科が設けられており、全日制では7万人の教授、大学や高等教育機関の数も2600以上に達しました。

イスラム自由大学

 

学生の総数も、2015年の最新の統計によれば、470万人となっています。このうち104万人が短期大学、290万人が学部、58万人が修士課程、14万400人が博士課程で学んでいます。

 

イランの大学の学術的特権や信用により、多くの外国人学生がイランの大学で学業を継続しています。この2,30年において123カ国の学生がイランに留学しています。さらに現在、イランに留学している外国人の学生の数は3万5千人であり、このうち半数が人文学、30%が工学系、17%が医学、3%が芸術系の学部で学んでいます。

 

ここまでイランの高等教育の小史についてお話してきました。次回からはイランの権威ある大学をご紹介してまいりましょう。

 

 

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