11月 19, 2022 18:30 Asia/Tokyo

コーラン第35章ファーテル章創造者、第22節~第26節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

第22節

(22)وَمَا یَسْتَوِی الأحْیَاءُ وَلا الأمْوَاتُ إِنَّ اللَّهَ یُسْمِعُ مَنْ یَشَاءُ وَمَا أَنْتَ بِمُسْمِعٍ مَنْ فِی الْقُبُورِ

 

「また、死んだ人と生きている人は消して同じではない。神は誰でもお望みの者を聞こえるようにする。汝は墓場にいる人々を聞こえるようにはできない。」

 

第23節

(23)إِنْ أَنْتَ إِلا نَذِیرٌ


「汝は警告を与える者に過ぎない」

 

前回の番組でお話しした前の節に続き、この2つの節は、不信心者を死人に、敬虔な人間を生きた人々にたとえ、次のように語っています。「不信心者たちの心は死人のようであり、何かを見ることも聞くこともない。不信心は、人間の前にある覆いのようなものであり、その人が真理を目にしたり、耳にしたりすることを妨げる」

 

実際、神のメッセージを魂によって聞くのは、真理を聞き、それを受け入れようとする心を持つ人々です。しかし、もし真理を受け入れる心を持っていなければ、耳にも、それを受け入れる用意はありません。それはちょうど、テレビを見たりするときと同じです。テレビをつけていても、その番組に注意していなければ、アナウンサーの言葉が聞こえてはいても、それを理解することはありません。なぜなら、それを聞こうとはしていないからです。不信心者もまた、真理の言葉が聞こえてはいますが、それを聞いて受け入れようとはしていないために、まるで真理の言葉をまったく聞いていないかのように、理解することはないのです。

 

この節は続けて、神の預言者に次のように語りかけています。「汝の使命は警告や忠告を与えることである。その警告に注目するのは、聞く耳を持つ者であり、死人のように、聞く耳も見る目も持たない人々ではない。汝の言葉がいくら論理的であっても、相手が聞いて理解しようとしなければ、その人に影響を与えることはない」

 

第22節と23節の教え

  • 信仰は、個人や社会の成長の源となります。反対に不信心は、個人や社会の死や滅亡の原因となります。
  • 宗教を広め、唯一神の信仰に人々をいざなうことは不可欠です。しかし、もし人々が必要な準備を整えていないとき、彼らが影響を受け、真理を受け入れることを期待すべきではありません。
  • 人々が不信心に走り、背を向けたからといって、私たちが希望を失ったり、真理を疑ったりするようなことがあってはなりません。

 

 

第24節  

(24)إِنَّا أَرْسَلْنَاکَ بِالْحَقِّ بَشِیرًا وَنَذِیرًا وَإِنْ مِنْ أُمَّةٍ إِلا خَلا فِیهَا نَذِیرٌ

「まことに我々は、汝を正当に、吉報を伝え、警告を与える者として遣わした。我々はすべての共同体の中に必ず、警告者を遣わしてきた」

 

敬虔な人々と不信心者について述べた前の節に続き、この節は、神の預言者たちの最も重要な使命に触れ、次のように語っています。「真理に基づく人々の導き、善を行う人々への吉報と悪を行う人々への警告は、神のすべての使徒の責務である。彼らはまず、道を示し、その後、現世と来世での神の報奨と懲罰を明らかにし、人々に善を奨励し、悪を禁じる。預言者たちは、神の教えを伝えるだけでなく、人々を教育し、熱心な教師のように、叱責と励ましを利用する」

 

預言者が語り掛ける相手の多くは、偏った考え方を持つ利己的な人々でした。前の節とこの節の後には、警告の方法が特に強調され、次のようにあります。「神は人々を逸脱した行動や考え方から遠ざけるため、常に、預言者たちに対し、人々の行動の結果について警告し、悪しき運命に恐怖を抱かせるようにした」

 

第24節の教え

  • 励ましと叱責、恐れと希望は、ともにあってこそ、役に立ちます。どちらか一つだけでは不十分であり、それが、人間の精神性の教育と成長における不足、欠陥となります。
  • 無知に陥った社会には、吉報以上に警告や忠告が必要です。
  • 神は必ず、地上に最後通告を下してきました。神の使徒たちが常に、神のメッセージを人々に伝えるために存在してきました。

 

第25節

(25)وَإِنْ یُکَذِّبُوکَ فَقَدْ کَذَّبَ الَّذِینَ مِنْ قَبْلِهِمْ جَاءَتْهُمْ رُسُلُهُمْ بِالْبَیِّنَاتِ وَبِالزُّبُرِ وَبِالْکِتَابِ الْمُنِیرِ

 

「また、彼らは汝を否定するが、まことに彼ら以前にいた人々も否定した。彼らの預言者は、奇跡と明らかなしるし、記述や書物をもって彼らのもとにやって来た。」

 

 

第26節

(26) ثُمَّ أَخَذْتُ الَّذِینَ کَفَرُوا فَکَیْفَ کَانَ نَکِیرِ

「その後、不信心に走った人々を叱責した。私の懲罰はどのようなものだっただろうか?」

 

前の節に続き、この2つの節はイスラムの預言者にこう語りかけています。「メッカの多神教徒が汝の導きを受け入れず、汝の使命を否定するが、心配したり、驚いたりすることはない。歴史の中で、多くの人が、無知やかたくなな心から、預言者たちに反抗してきた。神の預言者たちは、奇跡や明白な論理、言葉を持っていたというのに。また一部の預言者たちも天の書物や宗教法を持ち、神の教えや法を人々に伝えたというのに。とはいえ、かたくなな心から真理に立ち向かった人々は、現世で神の懲罰を受けた。こうして、他の人々が彼らの運命から教訓を得ることができるようにした」

 

第25節と26節の教え

  • 預言者たちは、明白な言葉を持っていて、人々を、迷信や無意味な言葉ではなく、論理と根拠に基づいて神へといざなっていました。
  • 真理を理解した後にそれを否定することは、神の怒りが下る原因となります。
  • 神の怒りは来世だけに限られません。時に、現世でも、神の怒りが現れます。